8.Lyla
あなたは10歳のある日を思いだす。
それはあなたがこのディアスポラに押し込まれた日のこと。
あなたが毎日目にしてきた分離壁の先に押し込まれた日のこと。
その年、中東のとある国で、イスラム主義者のための国家建設を宣言する人々が本当に国を打ち立ててしまった。内乱が続く国の混乱をつき、無政府状態の領域に新国家を樹立してしまったのだ。新しい国家、新しいカリフ、新しい驚異、新しい西側の敵。彼らは文明的に振る舞うことをよしとしなかった。文明とは西側のものであり、ヨーロッパのものであり、アメリカのものであり、従ってアラブの、イスラムのものではなかったからだ。彼らは真にイスラムなる国家を掲げ、世界各国から人々を集めた。人々を集め、捕え、隷属させた。
男は戦士として。
女は褒美として。
異教徒は奴隷として。
聖戦の中で死すべき定めの兵士たちの魂を慰めるために。
そしてそこから、世界の歯車が少しずつ狂っていった。
あなたは街の各所で機械をよく目にするようになる。それは大型犬の姿をした監視用ドローンであり、鳥の姿をした偵察用ドローンであり、人の手による操縦を必要としない無人車であり、そしてその全てにIMIの社章がついていることにあなたは気づく。街中には至る場所に監視カメラが設置され、神殿の丘への入り口には金属探知ゲートが設置された。そこを警備するのも兵士ではなく機械だった。人の腰ほどの高さの無表情な機械。その腹にはたっぷりの銃弾がつまっている。
「テロの犠牲を防ぐために必要な措置なんだ」父はいう。「人は脆弱で、急迫不正の脅威に対処できるようにできていない。人間が脅威に対処ができないのなら、人間ではなく機械に任せる方がいい」
「でも、機械は私たちを助けてくれるの……」
「助けはしないよ。ただ、誰よりもうまく敵を殺すだけだ」
そういう父はまた、あの日と同じ怒りを心に秘めている。IMIに対する怒りを、いまも忘れずに生きている。
父の言葉はおそらく正しかった。あなたはある時、嘆きの壁の近くで銃の乱射事件が起きたことを知る。彼らはイスラエル国籍を持つアラブ人だった。彼らは金属探知ゲートに引っかからないように3D樹脂プリンタで作成した銃を使用してイスラエル教徒を無差別に殺害し、その場にいた警備ドローンによって排除された。犯行グループを含む6人が犠牲になったとニュースは告げる。
6人。
無色透明の数字。
けれど、あなたはメディアの告げる死者の数がただの数字でしかないことを知っている。
テロが起きた次の朝、クラスメイトの一人があなたをじっ、と睨んでいる。やり場のない感情に涙ぐみ、歯を食いしばり、目を血走らせてあなたのことをにらんでいる。
ニュースに踊る数字は、家族を殺された人の痛みを教えてはくれない。その目で射抜かれると、どれだけ心が締めつけられるかも。
世界は正気であることをやめてしまったようだった。イスラム国家の建設の日から、アメリカ合衆国大統領が東エルサレムへの大使館の移設を認めた日から、毎日のように世界のどこかで人が死ぬ。南アメリカで起きた麻薬抗争が、アフリカで続く部族紛争と誘拐が、チェチェンで続く山岳ゲリラの襲撃が、熱戦化する印パ戦争が、何千何万という命を奪っていく。けれど時折、あなたのクラスメイトの一人が身を引き裂かれるような悲しい声で泣いていて、昨日死んだ誰かがただの数字ではなく、等身大の人間であったことを知る。
そういう日々が続いて、次第にクラスメイト達は減っていった。あるものはここよりずっと安全な出身国へ、あるものは国境から遠く離れた街へ、あるものは物言えぬ墓の下へ。そしてクラスメイトが一人、また一人と減っていくたびに、あなたに注がれる視線はますます痛みを増していく。
迫害。排斥。敵意。あなたがバーディヤの居住地区でさんざん味わってきたもの。
ある日から、あなたの私物が隠されるようになる。あなたは全てを肌身離さず持ち歩かざるをえなくなる。
ある日から、学校教育が大きく変わる。現代史の領域が増え、教師たちはこの国がいかに周辺国によって弾圧されてきたかを語り始める。平和と共存の建前すら口にしなくなった。彼らは国家を守らなければならないと口々に言う。テロリストから国家を守らなければならないと。自分たちが征服し、強制移動させた民のことは誰も教えないのに、テロリストが誰を差しているかは明白だった。
誰もあなたとサッカーをしなくなった。
シャヴィトとも会話ができなくなった。
もうすぐ彼女の誕生日なのに、あなたは誕生日カードをどうやって渡せばいいのかもわからない。あなたの居場所は消えつつあった。
そして、ある日の朝。
学校についたあなたは、シャヴィトが自分の席で俯きながら泣きじゃくる姿を目にする。太陽のようだった笑顔をくしゃくしゃにして、悲痛な嗚咽を繰り返している。あなたの動悸が跳ね上がる。
「シャヴィー……シャヴィー!」
あなたはシャヴィトに駆け寄ろうとする。けれどそんなあなたを、誰かが突き飛ばした。ジャックだった。
「シャヴィーに近づくな、テロリストめ!」
誰かが叫び声をあげて、それが誰かに木霊する。クラス全体に波及する。
誰もあなたの味方はいなかった。
いつの間にか、あなたは学校に一人だけだった。
その日のことを、あなたは今も後悔している。
彼女の涙に何もできなかった自分の無力を。
ただ逃げだすしかなかった自分の臆病を。
あなたは学校にいられなくなった。あなたは家に閉じこもり、父親も学校へ行かせようとはしなかった。
それにどうせすぐに、学校どころではなくなった。それから数日も経たないうちに、あなたの父親は治安警察によってヨルダン川西岸地区へ送還されたからだ。
警察はIMIの社員証の失効に因縁をつけて、正式なイスラエル国籍を持つあなたと父を排斥してしまった。
イスラエルは、エルサレムから異教徒の排斥を進めつつある。
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