1.Katharina

 私が十二歳だったある日、私の父は狩りに出るといって家を離れ、そのまま郊外で自らの命を絶った。

 長いこと触らずに飾られていた猟銃の先端を口にくわえて。

 祈るように両の手を合わせ。

 湧き上がる嗚咽に頬を涙で濡らしながら。

 万が一にも生き残ってしまわないように熊狩りベアハント用の弾丸で、自らの頭蓋と脳漿を1mm以下の薄片に爆散させた。


 幼い頃の私は父が好きだった。父は誇るべき存在だったし、父も私を愛してくれた。

 教養があり、冷静で、ユーモアがあった。私が何かを問えばウィットに富んだジョークを返してくれたし、宿題だって一緒にやってくれた。父が家に帰ってくるとキャッチボールをしてくれて、休みの日には自然公園に連れて行ってくれたのを覚えている。母との関係も良好だった。家には笑顔があふれていて、父も母も幸せそうな――絵に描いたような理想的な家族だった。少なくとも私がジュニアスクールに入るまでは。

 ある時から、父と遊ぶ時間がなくなっていった。父の勤務が夜勤になり、家族と生活リズムが合わなくなっていったのだ。父は私が深く寝入った頃に帰るようになり、父と会話する機会もなくなっていった。

 休日には一言も言葉を交わさず、父はただじっ、とテーブルの上をみている。1ミリも動くことなく。母や、私や、弟が何を話しかけても答えない。なのに時折、始めて私の存在に気づいたように振り向いて、こちらをじっとみつめてくることがある。

 あの恐ろしい目。

 まるで知らない誰かをみるような。

 殺すべき相手かどうか見定めるような、あの冷たい目。

 そんな日々が数か月も続いて、次第に父と母が言い争う声が夜ごと聞こえるようになった。私はといえば、それまでよりもよりいい子であろうとした。塞ぎがちになっていた母に代わって家事をこなして、夜になれば弟たちを寝かしつけた。わがままもいわなかった。キャッチボールをねだらなかったし、宿題だって一人でやった。自らの行いが正しければ、それで物事が好転すると信じたのだ。

 けれど、何も変わらなった。

 ある日、地震かと思うほど家が大きく揺れた。父が母の身体を強かに打ち付けた衝撃だった。私が階下に降りていくと、母は細い肩を抱くように身を縮こませながら嗚咽を繰り返していて、それから少し遅れて、父の車のエンジン音が遠ざかっていくのを聞いた。私が父をみたのはそれが最後だった。

 母はその日のうちに荷物をまとめて、私と弟を連れて祖母の家に帰ってしまった。父は追ってこなかった。私の誕生日も、弟の誕生日も、私や弟が新しい土地で不安に泣いている日も。今や父一人だけとなった家の電話は、いつかけても留守電だった。

 父の死からしばらく経って、父の職場の同僚だと名乗る人からの電話を受けた。その男は父がここ数日出勤しておらず、家も不在であるということを私に告げた。その口ぶりから、父の関係者全員に同様に当たっているであろうことが読み取れた。

 私は彼を糾弾したかった――父がおかしくなったのは、あなたたちのせいよ。それが八つ当たりに過ぎないとわかっていても。

 父の遺体が校外の森の中で発見されたのは、その翌日のことだった。


 数か月ぶりに帰った家は、すっかり荒れ果てていた。埃舞う部屋、ガラス片とごみの散らばったリビング、父の自慢だった庭は芝生が伸びきっていた。ただ父の部屋のクローゼットにかけられていた制服だけは、埃一つなかった。

 我々はこれを事件とは考えていません。父の死を担当した軍警は母に伝えた。まるで氷柱に滴り落ちる水のように冷徹で、淡々とした言葉だった。

 これは事件ではありません。

 これは殺人ではありません。

 これは陰謀ではありません。

 これはありふれた喪失です。

 これはありふれた悲劇です。

 これはありふれた自殺です。

 ――この時、私は初めて、怒りを抱いた。

 軍警の言葉に、口調に、態度に、眼差しに。

 あるいは、既に離婚しているからと、死を悼みもせず、任務外の死を悪びれもせず、娘の目の前で話すことにためらいすらなく、あなたの父の死は英雄的でもなければ悲劇的でもない、ありふれた死でしたと――そう、淡々と話すその無神経さに。

 あるいは、そう語らせる合衆国という国家の在り方に。


 軍警が去ったあと。

 父の衣服や私物を寄託するため選り分けていた私と母は、書斎の机の下に転がった真新しい勲章をみつけた。それは、いつも折り目正しく軍人たらんと努めた父らしからぬ粗忽さだった。父は掌ほどの大きさの勲章も、1ドル硬貨大の勲章も、略章でさえ埃をかぶってしまわないよう専用のケースに納めていたのに、その勲章だけは無造作に投げ出されて、何枚も折り重なった封筒や書類の下敷きになっていた。

 父は最後まで軍人であることを選んだ。

 母と私を捨ててまで、軍人であることを選んだ。

 家庭を持つ父としてではなく、合衆国の忠実な軍人サーヴァントとして。

 このアメリカから遠く離れた異国にて偉大なる合衆国に仇なすテロリストを殺し、殺し、殺して回り。

 その果てに得たこの勲章を、けれど父は、その身に飾ることを拒んで死んだ。

 母はその勲章を手に取ってしばらく悩んでいたが、やがて持ち帰ることを決めたようだった。遺族は家族が果たした務めに応じて遺族給付を受けられる。父の感情がどうであれ、勲章は父の責務の証明には違いなかった。

 少しみせて、と私は母にせがむ。私はその勲章をまじまじとみつめる。私は幼い頃、何度も父の勲章をみせてもらった。だから知っていた。勲章の裏側には、受勲者の名誉が刻まれる。

 合衆国旗スター・アンド・ストライプスを思わせるトリコロールのリボン、鋳造されたばかりの真新しい勲章、その裏面に刻まれた数字。

 1381。

 私はその数字を何度も読み返す。何度も何度も読み返し、言葉に繰り返し、記憶に刻む。

 それが、おそらく――父が父であることをやめてもなお、父が生きていたという証だったから。

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