環の外で―Without The Loop―

雪星/イル

0.Lyla

 世界は、一面の砂嵐だった。

 何百マイル彼方の砂漠から運ばれてくる暗褐色の暴風。乾いた大地に降り注ぐのは砂と土であり、石とモルタルからなる乳白色の街並みを土気色に染め上げる。赤道直下の陽光に焼かれ、数百キロを越えて運ばれる砂埃が喉に絡み、細かな粒子が茨の棘のようにあなたの瞳に突き刺さり、あなたは思わず目をこすった。その激しい嵐の中では、目を開くことはおろか呼吸することさえ困難だ。空の青、建物の壁の白や黄色や乳白色、軒先に飾られたアネモネの赤、薄紅色のアーモンドの花、緑茂り頭上を覆うオリーブの木、その全てが暴風に征服された。

 待ち望んだ時がきた。


 暴風ハブーブはあなたに味方した。一年を通して晴天が続く西岸地区に砂嵐が訪れたその日、あなたはあなたの神に、心からの感謝を捧げただろう。それはあなたの姿を眩ませ、あなたに目的を遂げさせる、正に神の恵みだった。

 しかし、急がなければならない。あなたにとって悪を成す者達もまた、この暴風を待ち望んでいたのだ。あなたはあなたの望みのために、彼らよりも先に行動しなければならない。

 あなたには会いたい誰かがあった。

 あなたには届けたい思いがあった。

 あなたには伝えたい言葉があった。

 だからあなたは行かなければならない。

 あなたは砂塵が髪に入り込まないよう、全身をストールで覆い、黒いヴェールを何重にもまとう。侵略者達の野蛮な法を破り、貞淑にあれという最後の預言者の言葉に従った結果、あなたであるという特徴は奪い去られ、あなたは計数されざる者となる。これもこの砂嵐が可能にしたこと。あなたが起こす蛮勇も、これから行う蛮行も、誰一人咎める者はいない。

 掘立小屋バラックを出ると、そこには無辺の荒野がある。砂嵐に覆われた世界は、わずか数メートル先すら見通せない。土煙は建物を燻らせ、立ち並ぶ家々の輪郭が赤くぼやけてかすむ。太陽すら覆い隠すこの砂嵐は、はるか西の彼方、スフィンクスが座す砂漠の果てから運ばれてくるもので、数年に一度、ごくまれに気象条件が重なり合った時だけ現れる。あなたはその条件がどのようなものなのかは知らないし、その年齢に相応しい教養も教育も享受してこなかったから、その発生を予測することもできない。あなたにとってこの嵐は、それこそ神の恵みに他ならなかっただろう。

 しかし、神の恵みはいつまで続くかわからない。神は全知全能であるゆえに気まぐれだ。あらゆるものに秀でるということはあらゆるものに疎いということであり、あらゆるものに平等であるということはあらゆるものに不公平である。

 故に、あなたは迷うことなく一歩を踏みだす。

 小柄なあなたの体躯には似つかしくない荷物を懐に抱え。

 彼らが“壁”と呼ぶ場所へ。数多の瞳と、数多の嘆きと、数多の苦しみによって築かれ、守られてきたその“壁”へ。

 さあ。

 今日こそ、あなたの願いを遂げるのだ。

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