第8話 岩塩と渡河


 荒野で命を繋いでくれる川も、旅では牙をむく獣である。


「おーよしよし、よし!」


 アクロは山豸やぎの群れの中でも、とりわけ小さい奴の体を撫でて、なだめすかす。

 対岸では、と言ってもほとんど幅のない川なので目と鼻の先だが、トゥルルが杖を回して群れを集合させていた。


 こちら側の岸には一匹、小さい山豸やぎだけが川の水に入ることを怖がって、なかなか進まない。


「んー、そういう時には角を持って引っ張ってやるの」


 らばに再び荷物を縛りながら、アクロの様子に気付いたチャルルが振り向きざまに助言と飛ばした。


 目の前の山豸やぎは他の個体と比べるとまだ未成熟な角をしていて引けたのだが、アクロはそれの手前側に回ってから握ってみる。


 当然、抵抗された。


 その反応にアクロはチャルルへ視線を流すが、雑魚過ぎるの、という半眼の視線を返される。

 やるしかないだろう、アクロはめげずにしっかりと角をつかみ、引っ張った。


 すると、最初の抵抗は弱まって、山豸やぎは促されるままに動き出す。

 なんだ可愛い奴じゃないか、と思いながら川の浅い所を選んでやって、川に引き込んで渡す。

 すると、アクロが角を握る手を緩めたら山豸やぎのちびは小走りに、岸に上がると群に合流していってしまった。


 トゥルルが満足そうに頷く。


「ごくろーさま! 次もお願いね」


「……へ? 次ってどういうこと?」


 そこに、背後から荷積みの終わったらばを難なく先導してくるチャルルが加わった。


「んっ、渡らなくちゃいけない支流は一本だけじゃないの」


 アクロは表情を失った。



 そう、地図の空白、山岳地帯には描かれていない無数の大河支流が存在しているのだ。

 そして、先ほどと似たような大きさの小川を二つ越えた先の丘で、その様相の一変にアクロはうまの上で目を見張る。


「これを……渡るのかい? 今までの比じゃないんだけど」


「んっ。 もう水量が枯れてきてるから、これでも渡りやすくなってるの」


 その言葉に、アクロはもう一度前方を見た。


 大河の本流が既に近いのか、眼前にあるその河は広大な河原と瀬を持っている。

 それを両脇に挟まれて、彼らの天幕が二帳は張れそうな、広い川幅が流れていた。

 深さは、川底の色を離れて見渡しているここからでも確認できるので、なるほど、チャルルが言う通り、ましな程度の浅さで済んでいるのかもしれない。


 幸いなのは流れがそこまで急ではない事だろうか、だからこそ二人がここを渡河する場所として選択しているのかもしれない。


 河から左右へ視線を伸ばすと、上はやや谷がちだが、上流から下流へなだらかな斜面が続いていた。

 手に収まる程度の大きさの石で埋め尽くされた河原、そこを縁取る形で申し訳程度、背の高い木が群生して、あたかも水辺に墨を流したように黒々とある。


「これを越えちゃえば、大河の東側に出ちゃうって感じだから。 気張っていくわよぅ?」


 いつもと同じような口調だが、二人の顔には先ほどまでにはない緊張が見えた。


 そしてアクロも、緊張より恐怖だろうか、俯瞰から川の高さまで視線が下りてくると、より川幅が広くなった心地がして息をのんだ。


 踏む河原の石は丸く、うまが時々脚を取られてアクロの体を左右に揺らす。

 山豸やぎもそこまでは大人しくトゥルルに従ったが、河中へ追い立ててもなかなか水へ入ろうとしなかった。

 チャルルは荷物が水に浸からないよう、らばに乗せた荷の結ぶ位置を高めに直している。


「そのうまなら乗ったまま河を渡れちゃいそーね。 アクロは先に向こう岸に回って、これを振っててちょーだい」


 首にかけている、様々な色で織られた毛織の小物入れを、トゥルルは肩紐を外してアクロに手渡す。

 何が入っているのか、と彼は受け取った鞄を下から胸元まで引き上げて、それの中身を見る。

 と、


「これは……塩?」


「そーよ。 この子たちはそれに釣られて付いてくるの」


 中には石のように固まった、茶けた塩の塊が入っている。

 触ってからアクロはその指を舐めると、甘い塩味が舌先に滲む。


「んぅ、荒野だと動物は土を舐めて、その中に溶けてる少ないお塩を取るしかないの。 だからお塩の塊は皆のご馳走なの」


 アクロは積もっていた疑問が解けて頷いた。


「なんで家畜たちが自然と二人のところに集まってくるのか、ずっと疑問だったんだ。 そういう訳なんだね」


 二人も得意そうに頷く。


「あー、でも無警戒に首に下げておいちゃだめよ。 しっかり見てないと鞄を盗られてぜーんぶ舐められちゃうから」


 気を付けるよ、と言ってアクロは駒を走らせた。


 駒の足が瀬に踏み込む。

 河原がそうであったように、石の配置が不安定で、時折、うまは踏み込みにくそうにする。

 深みに到達するとうまの腹が濡れない程度で、うまの脚は完全に河に飲まれてしまう。

 あぶみもぎりぎりの高さで、乗せているアクロの足裏が水面を横滑りするように進む。


 ――これはもしかして、二人が入ると首しか出せないんじゃないのか?


 不安はよぎったが、ここで二人に何を言っても仕方がない。

 一歩ずつ着実に渡していき、とうとう対岸の瀬にうまの脚がかかった。


 アクロは振り向いて、鞄を手に、元の岸へ手を振る。

 二人も両手を振って合図し、渡河が始まった。


 トゥルルが山豸やぎの群を瀬の中に追い落とす。

 彼らは渋るが、追い立てられる勢いに観念して、後ろからくる仲間に退路を断たれる形で、河の中に侵入していく。


 先頭をとるのはリーダー格の大きな山豸やぎ

 続いて中背の個体までは、脚を使って器用に首を水面から出し、水の流れに逆らいながら歩を進める。


 小さい個体にはこの芸当がまだ難しいので、前脚と後ろ脚をそれぞれ両肩に回して、山豸やぎの腹が首の後ろにくる形で、トゥルルが背負って運ぶ。


 チャルルは先に入っていった群が力尽きて流されないよう、川下からそれを監視している。


 アクロが見守る中、顔が見え隠れしながら進んでいる山豸やぎの群と一緒になり、頭と背負った山豸やぎの体だけ水面から出したトゥルルがゆっくり岸へ向かってくる。


 彼らも辛いのだろう、山豸やぎは呻くし、普段息を上げても声に出さない二人が、喚起して踏ん張っていた。


 一番大きな個体が瀬に乗り上げ、アクロの近くに寄ってくる。

 それに続いて、一匹二匹。


 そして水を掻き分けて、なんとかトゥルルも渡って、山豸やぎを背から降ろした。

 トゥルルは肩から息をしているが、まだ自力で渡れそうもない山豸やぎが向こうに数匹控えている。


 チャルルは流水に負けた一匹を体で受け止め、そのまま腕の中で抱えて岸まで持ってきた。

 その山豸やぎは足をすくめていたが、群の数頭が近くに繁る草に眼をとられて鼻先を横切るのを見ると、立ち上がってそれに続く。

 アクロが眼を戻すと、チャルルは既に水中に戻り監視を再開していた。


 河に到着してから一刻は過ぎたのだろうか、ようやく山豸やぎをすべて渡し終えて、あとはらばを呼び寄せるだけとなる。


 さすがに二人とも疲れが見えていて、今日の旅はここまでだろうか、とアクロは高さの頂点を過ぎた陽を見上げる。

 そう油断して、今日の晩飯などに考えを巡らせた、その最中だった。


「んうぅぅぅ! トゥルルーっ!」


 チャルルの悲鳴が響いた。

 アクロが視線を河に戻すと、河にはチャルル一人の影しかいない。


 トゥルルが消えた。


 いや、転げた石に脚を取られて、頭から流されたのだ。

 チャルルはトゥルルの姿を追うが、疲れが脚にきているのか、なかなか思うように進めない。


 その状態が把握できた瞬間、何か理論めいた思考がアクロの頭から消え失せ、頭の日よけ布や鞄、松葉杖を投げ出して、アクロはうまの上から跳んだ。


 どちらの脚で着地したのか、もう本人にも分からない。

 ただ、脚の踏み込みを、音を立てて打ち消していく河原の砂利や石へ、心中で毒づきながら、走って、赤い布が流れる先へ回ると、そこから彼は水中へ飛び込んだ。


 水に体が叩きつけられる衝撃の後、手でそれを掻き、頭を上げた。


 冷たい。

 冷たすぎる。

 そう、この河は雪解け水なのだ。

 解けて、流れて、集まって、それは温められることなく流れてきている。


 アクロは腕や脚が締め付けられるような感覚と、心臓が驚いて跳ねるのに構わず。

 流れてくる赤を、抱きとめた。

 そのまま、その温い赤の塊を、片腕にある限りの力で抱いて、抱き寄せて、浅い方へがむしゃらに、水底を蹴って戻る。


 瀬が近づくにつれ、だんだんと自分が何をしているのか、アクロの体の感覚が追い付いてきて、脚が上がらなくなり、腕が回らなくなった。

 腰が重い。

 緩やかな河の流れが激流に錯覚できた。

 川の水が温かい気がしてくる。

 これは、体が急激に冷えてきていると言うことだ、と何故かそれだけは冷静に、アクロの頭が警告した。


 音が戻ってきて、チャルルの騒いで上げる悲鳴、そんな鬼気迫る状況に我関せずと、食んだり、水を取ったり、鳴いたりする山豸やぎ、吹く風の音、と周囲の彩りをアクロは認識し始める。

 風はさらに冷たい水を際立たせ、転げそうになって潜ったアクロの頭は水を飲む。

 それでも前へ、瀬を目前に、そこへ足をかけ、岸へ。


 ついに岸へ身を上げると、硬い石の並ぶ中、アクロは体を打ち付ける様に倒れ込んだ。

 大気が重くて、体が地面へ吸われるように感じ、アクロは起き上がれなくなる。


 腕の中には、水を吐いて必死の形相で咳き込むトゥルル。


 無事だった。


「よかった、ほんとうに」


 それを確認してアクロは腕の力を抜き、完全に河原へ身体を委ねる。

 上がってきたチャルルが、初めて見せる泣き顔で二人に駆け寄って、吼えた。


 三人はようやく息を整え始める。

 チャルルは何か言っているが、何と言葉をかけられているのかアクロの頭が追いつかない。

 ただ、冷えた彼の体の温度は内臓まで達して、酷い吐き気に襲われている。


 力の入らないアクロの腕の中に納まるトゥルルは、泣くでもなく、今まで誰にも見せた事の無い表情をして、彼の胸に顔をうずめ、震えた。

 トゥルルの体の熱が伝わってきて、アクロもその体の合わさった部分だけが体温を取り戻していく。


「アクロ……アクロォ……」


 トゥルルは呟くように名前を呼んで繰り返し、顔を上げ、アクロを見つめた。


 互いに目が合うと安心して笑い――


「うぅ、もう、だめ離れて――オゲェ、デロゲロ……オフッ」


 血の気の失せた顔をしたアクロは耐えかねてトゥルルを突き放し、口を押さえ、吐いた。

 目の前に、半分消化された干し肉がアクロの指の間からこぼれ、広げられる光景が出来上がる。

 咳き込む彼を見て、二人は顔の眉を困らせた。


「ほんと、世話が焼けるんだから」「なの」

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