狼二人と馬鹿一匹

イビキ

第1話 親友と乳酒


「やあアクロ、だいぶ動けるようになったみたいじゃないか」


 天幕に快活な声が響く。

 天幕の出入口は縦長の毛織物が下がって閉じられていたのだが、それを片手で横にさばいて、肩を滑り込ませるようにして、親友のルマウが顔をのぞかせていた。


「いらっしゃいルマウ。 うまの音が聞こえたから、来てるのは分かってたんだけど。 これだとまだ早く動けなくて」


 アクロは松葉杖を掌で叩いて示す。

 それは一目で即席と分かるような、灌木を切り出して寄せ集めたものだった。

 ルマウは一瞬、わずかにしなるその杖を見て、あと少しでも体重をかけたら真ん中から二つに折れやしないかと思った。

 が、存外、そのしなりが体重を受け止め、反発してアクロの体を前へと進めている。

 見た目と裏腹にその仕掛けは洗練されているようだ。


「いいさ出迎えなんて。 むしろおまえがもう動けることにびっくりだ。 この前来た時にはまだ寝たきりだっただろ?」


「そうだったね。 この通り、身の回りの用事は自分で出来るようになったよ。 それで、何のもてなしも出来ないけど、山豸やぎの乳酒があるからそれでいい?」


 返事を待たず、アクロは壁にかけられている大きな革袋へ近付く。


「有難く貰おう! というか、来ると決めた次の瞬間にはそれを期待していたんだ」


 おどけながら、ルマウは天幕の空間の中央、床に敷かれた獣毛縮絨フェルトの絨毯に無遠慮に座った。

 絨毯は意外と上等な物らしく、柔らかな反動と共に体がわずかに沈む。


 ルマウが何気なくそこから上を見上げると、遮るものはなく空がある。

 天井の中央部は外気に開けていて、そこから明かりを取り入れるようになっているのだ。

 差し込む日差しは角度がついていて、淡い暖色をしている。


「昼には到着する心算でいたんだが、だいぶ遅れてしまったな」


「泊るなら後で二人に言ってよ。 僕は居候なんだから」


 言いながらアクロは革袋の覆いを開く。

 中には重みのある乳白色の液体が溜まっていて、だから袋は下の方が膨らんで、あたかも壷のような形になっている。

 脇にある物入れの上、手近に置いてあった茶碗二つを器用に片手で取り上げたアクロは、袋の近くに立て掛けられていた杓子で、袋の中身を掬って、たっぷり二杯に分けた。


 そしてまたゆっくりと杖をついてルマウのほうへ近づき、茶碗の片方を差し出す。

 最初は緊張した面持ちでそれを見守るルマウだったが、アクロが自分へ向かってくる頃には感心した面持ちになり、茶碗を受け取って満足げに笑った。


「ここまで出来るなら、もう外に出歩けそうだな。 それにしてもずいぶん我が物顔で使うようになったじゃないか」


「まあね、もう一ヶ月近くも厄介になっているから。 慣れたというか、畏まって遠慮するのに疲れたというか、そんな感じかな」


 アクロは手中にあるもう一方の茶碗をひっくり返さないよう、おっかなびっくりに、ルマウへ向かい合う形で足を延ばして座る。


 それから脇に松葉杖を置いて、


「――じゃ、乾杯」

「おっしゃ、乾杯!」


 茶碗を片手で天に捧げ持ってから口元に運ぶ。

 茶碗の縁に口をかけると、ほのかな甘みのある乳臭い香りが鼻孔を刺激する。


 一口。


 とろみのある新鮮な酸味が口の中に広がる。

 ところどころ、粒粒とした固形の食感があり、舌でつぶすと甘い乾酪チーズの味覚が溶け出す。

 癖のある風味で普段から飲みなれない者たちには好き嫌いの別れる所ではあるが、二人ともこれが嫌いではなかった。


「うん、野性味がある酒も結構! たまらん!」


 ルマウは機嫌よく感じ入る。

 どちらがともなく酒の席で謡う詩を口ずさみながら、また一口、二口。

 酒と言うのは自分が飲むだけでなく、同席者が飲んでいるのを見るのもまた愉快なものだ。

 アクロもルマウに釣られて楽しくなり、喉へ酒を進める。


 そして酒が回り、アクロの口が緩くなったろう頃合いを見計らってルマウは、


「ずいぶん良くしてもらったみたいだな。 正直なところ、最初に見た時にはおまえはもう駄目なんじゃないかと思っていた」


「……そうだね、感謝しかないよ。 といっても酩酊したような感覚で過ごしていたから、何をされていたのか、ハッキリとした記憶は無いんだけどね」


 ルマウは頷く。


「俺もおまえを探し出すまで随分とかかったから、初めがどんな状態だったかは知らないが。 なんか後宮の王様みたいな待遇されてたな」


 茶碗の先に見える好奇の視線を制しながら、アクロは声を大きくする。


「やめてくれよ。 そんないかがわしい事は何もしてないし、多分」


「どうだかなー。 だっておまえ、しな垂れかかる女を両脇にゆったり横たわってたら、そうも見えるだろ」


 ルマウの言にアクロはさらに腕を振って否定を大きくする。


「あれはただ介抱してもらっていただけだから!」


 それに、と気恥ずかしそうに、茶碗に目を落としながらアクロは言葉を続ける。


「最初の頃こそ、可愛げがある感じだったんだけど。 昔、何の講義だったっけ、確か先生が余談で話していた可哀想はなんとか――」


 そこに人差し指を立てて、ルマウは思い当たったそれを言う。


「対象の可哀想な姿は時として、見る者に恋愛に似た感情を抱かせる、の奴か?」


 そういうことはすぐに出て来るよね君は、と呆れながらアクロは、


「そう、寝たきりだった時には、それはもう、君がそう思ったくらい、こっちが勘違いしそうになる雰囲気があったのに」


 肩を落とし脱力して、ため息を一つ。


「今だとすっかり憎まれ口が多くなって、僕をタダ飯食らい扱いだよ。 まあ、本当のことではあるんだけど」


 アクロのこぼした言葉に、ルマウは腕を組むと神妙な面持ちになって口を開いた。


「あの話の続きはこうだったな。 その状態から対象が復帰すると、当人が感じていた情も解消していく」


「僕はまさに、その現象を実践してしまったんだなー。 ――おっと、二人が帰って来たかな?」



 話し込んでいたらいつの間にか、地面を深く細かく叩きならす音が聞こえてくる。

 大量の足音だ。


 気付けば天幕の表から家畜の鳴き声が徐々に聞こえ始めていて、増えていく。

 発生元の距離感はここから遠くなく、むしろそれらは聞こえはじめるのが遅すぎるように感じた。

 恐らく、外を吹きすさぶ風の流れが反転して、こちらが風下になったことで音が届くようになったのだな、とアクロは推察する。


 しかし、そう落ち着いて考えている場合ではなかった。

 これは我が物顔で使っていた天幕に家主が帰還する合図である。


「まずいルマウ! 早く酒を隠して」


 いきなり取り乱すアクロに突き動かされる形で、ルマウは慌てて立ち上がった。

 だが、ルマウの軽い身のこなしとは対照的に、言った当のアクロがなかなか腰を上げられずにいる。

 低い所から杖をついて立ち上がる、という動きは体への負担が大きく、アクロはまだそれに慣れていないのだ。

 ルマウの方もこの場の勝手を知らないから、隠すと言ってもどこへやればいいのか、手元の茶碗の行き先を探してあたりを眺めるばかり。


 二人がそうこうしているうちに、軽快に地面をける音が別に近付いてくる。

 その距離はさらに近く、至近で、そして止まった。

 空気をはらむ音をさせて入口を覆う織物が持ち上げられ、日差しが抜ける。


 そしてそれを割る形で、強気の表情が登場した。


「あーっ、表にうまが居ると思ったらやっぱり! しかもお酒飲んでるしぃ! 怪我に障るからアクロはダメって言ったじゃん! んもー、ほんとトゥルルが見てないとダメダメダメっ子なんだからさぁ」


 逆光に照らされる影は少女。

 赤い頭巾をして、その顔の両横から豊かな髪の房を揺らす。


 彼女は走ってきたのだろうか。

 息を弾ませながらも、だが次々とまくし立てて二人と距離を詰める。


「や……やあトゥルルちゃん、お久しぶり。 お邪魔してるよ」


 頬を膨らませながら進んでくるトゥルルと呼んだ少女に気圧され、ルマウは硬い笑みを作った。

 一方、遅かったか、とまだ中腰のままで立ち上がれていなかったアクロは力を緩めて崩れ落ちる。


 そこにトゥルルの責める瞳が男たちの顔を交互に見て、アクロの方で止まり、眼光を強めた。

 唇を突き出す形にして一言。


「なにか言い訳してみるぅ?」


「滅相もないです。 申し開きのしようも御座いません」


 高圧的に見下され、アクロはすかさず身を小さくして、足を延ばしたままで伏す。

 トゥルルは人差し指でアクロの顎を下から掻くようにして持ち上げ、自分の方を向かせる。


「ふーん、遅かったって。 トゥルルに隠し事とか出来ると思ってるのぉ? ほんとバカねぇ、臭いでカンペキに分かっちゃうのにぃ」


 顎の下にあった手をアクロの頬にやり、片手で両側から挟み込むようにして彼の頭を固定すると、トゥルルは彼の口へ触れる寸前まで鼻を近づけた。

 至近距離で目と目が合い、アクロは視線を外す。


 一嗅ぎ。


「ほんと、わかっちゃう」


 トゥルルは片眉を引き上げると意地悪く笑った。


 怖っ、とルマウがこぼすと、トゥルルは瞳だけ動いて彼を見た。

 そして、どうしてアクロが飲むのを止めなかった?と言いたげに含みのある笑いを作った。


「いーのよ? お客様が飲む分には、ね? おもてなしするものだもの。 さあ座った座った」


 ぎょっとするルマウに再び座るよう促して、トゥルルは彼から空になっていた茶碗を取り上げると、アクロを解放して乳酒の袋へ向かう。

 ルマウは静かに改まって着座した。


 一寸、天幕内が静かになったことで、家畜の声が天幕の間近まで到達しているのに気付く。

 重なり合って重く響いている低音の足音が地面を伝わる。

 何やら人の声がその足音の行き先を操っていて、しばらくすると騒音が落ち着く。


 すると、新たに軽い足音が天幕へ入ってきた。

 それはトゥルルによく似た容姿の少女。

 しかし表情はやや大人しめで、だが怒らせていた。


 背丈ほどもある家畜追いの杖を胸の前で抱えながら、


「んっ、トゥルルひどいの、いきなりチャルルに皆を押し付けて、走って行っちゃうなんて――んっ、お客さん」


 チャルルを名乗る少女は、入るなりトゥルルに詰め寄ったが、彼女からこたえを返される前にルマウの姿を確認して、歩みを止めた。

 それから、おじゃましてます、と硬い挨拶をしてくる彼と、その隣で座して固まるアクロを発見して、全てを納得したように頷いた。


「んっ、隠れて飲んでも無駄なの。 サルーキを侮るななの」


 チャルルは頭から顔の横に流れる髪の房を揺らす。


 ところで、その髪は彼女の体の動きとは連動せず、毛の付け根あたりから独自の動きで跳ねている。

 否、それは髪ではなく、頭部にある獣の耳から生えた長い体毛だった。

 実は感情の機微に呼応して跳ねたり、耳を向ける方向で揺れ動いたり、先ほどからずっと、二人の少女は耳の毛を振り続けている。


 サルーキ。

 それは獣人と呼ばれる者たちの中で、さらに人狼と呼称される種族の一派に付けられた名称だ。

 獣人とは、獣の特徴を残した人の姿と、二足歩行する獣の姿の二つを取る、まさに半人半獣の存在である。

 よって人より広い種類を嗅ぎ分ける狼の嗅覚は健在で、アクロの腹の中の内容物など、とうに見通していたわけである。


「んっ、アクロはいい加減に学習するの。 学院を出た秀才って聞いたのにバカなの」


 半眼でみつめるチャルルの視線に耐えかねて、アクロはまた身を低くする。


「それでも酒の味を知っていると飲みたいものなんだよ、チャルルちゃん」


 ルマウが演技じみた大げさな身振りで話すと、少女たちは嘆息した。

 酒飲みに頭の優劣など関係ないのかもしれない。


「飲むのはアンタだけにしておきなさぁい。 はい、どーぞ」


 トゥルルはお替りの入った茶碗をルマウに手渡して、チャルルへ振り返った。


「チャルル、アクロのお酒が抜けちゃうように水飲ませちゃってぇー」


「んっ、了解なの」


 乳酒の袋の隣、抱えるほどの大きさの水瓶の蓋を開くと、中にあった杓子で一杯の水を汲み上げ、チャルルはそれをアクロに持っていく。

 アクロは突き出された杓子を貰い受けて、中身を傾けて口にする。


「ありがとうチャルル」


「んっ、いつまでも世話が焼けるの」


 自分たちが居ないと何もできないという自負、保護者の面構えがそこにはあった。

 それを見てルマウは口角を上げて、いたずらっぽく声を潜めて言う。


「どうやらまだまだ、可哀想、らしいんじゃないか?」


 ばつが悪くなって、アクロは目を反らした。

 反らせた視線の先では、チャルルとトゥルルが丁度、腰を落ち着けている。


 それで、とトゥルルが切り出した。


「ルマウさんはこんな時間になんか用なのぉ?」


「用、と言うほどでもないんだが。 使いの途中で近くを通りかかったから、アクロの様子でも見ておこうと思ってね。 だけど思ったより到着が遅れてしまって」


 ルマウは茶碗から一口、口の中を湿らせると続ける。


「ようやく俺も任地が決まったみたいでさ、しばらくこうやって会いに来れなくなりそうなんだ」


 アクロは顔を上げる。


「どこに決まったんだい?」


「面白味もなく、故郷に赴任することになった」


 ふむ、とアクロは声を吐く。


「陽布か。 すると、行ってしまえば当分会えなくなるね。 僕がいつまでここにこうしているかも分からないけど」


 すると少女二人はすかさず言葉を重ねた。


「一生働いてけぇ!」

「んっ、受けた恩は返すものなの」


 アクロは少女二人の訴えを躱して続ける。


「僕は多分、大総督の治める土地では出仕できそうもないし、そうなると皆とはもう会えないかもね」


「そう言うな、ほとぼりはすぐに冷めるだろ。 それに、出世したらお前を必ず復帰させてやるから。 約束しただろ俺たち」


 投げやりなアクロの言葉に対するルマウの貌は本気で、それにアクロはくつくつと笑う。


「それは一体何年後の話になるんだい」

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