第2話 朝食と別れ
「いー加減さぁ、泊まるの初めてじゃないんだから。 こっちの習慣を少しは覚えときなさいよねぇ?」
ルマウはトゥルルに毛布を剥がされて床に転がった。
背に何かがあるのを感じて、ルマウは固く閉じる瞼を押し上げると、薄目をひらいた。
天幕の空間はうすぼんやりと物の輪郭が見える程度に暗い。
それから寝そべったまま体をねじって背後を確認すると、既に同じように転がされていたアクロの姿があった、が二度寝の構えだ。
腕組をしてこちらが動くのを待っているトゥルルに、こいつはどうなんだ?とルマウが視線で問う。
トゥルルは深く一つ息を吐くと、片足の靴下を脱いで、その素足の足先でアクロの腹をまさぐった。
器用な足技で服をはだけられ、晒されたアクロの腹を足指の腹でさする。
すると、くすぐったさに耐えきれず、アクロはぐふっと声を漏らしてから渋々上半身を起こした。
「いつまで経っても矯正できないおバカさんたちぃ。 さっさと顔を洗っちゃいなさいっ」
そう言うとトゥルルは靴下をはき直して天幕から表に出て行く。
アクロが見上げる天幕の天井の中央、そこから見える空はまだ暗がりで、日が昇っていないことを告げていた。
家畜の世話をする人々の朝はとてつもなく早いのだ。
「おはようルマウ」
まだ横倒しになっている友人に声をかけると、彼もやっと身を起こした。
「……おはよう友よ。 ぐぁ、だめだわ……眠い。 まださっき寝たばかりのような気がする」
大きな欠伸をしてルマウは言うが、それは気のせいではない。
双子に交互に叱られながらも、昨晩遅くまでルマウは飲んでいたし、アクロはそれに付き合ってずっと話し込んでいたからだ。
まどろみの途中を話し声に妨害されたトゥルルに蹴りかかられて、やっと寝たのがおよそ数刻前の話になる。
アクロが暗闇の中で松葉杖を探して、先に起き上ったルマウがそれを床に見つけて彼に持ち手側を向けてよこす。
それでやっとアクロも体を起こして、闇に沈む床に気を付けながら表に出る。
表には、天幕のすぐ先、周囲を赤く照らす灯りが音を立てて弾けている。
チャルルが両脇に同じような高さの石を置いただけの簡易の炉に火を起こしているのだ。
そこに鉄板を乗せて加熱し、その上にのし棒で薄く延ばした生地を乗せて焼くと薄
「んっ、おはよ。 二人ともねむそうなの」
アクロたちに気付いたチャルルがその場から挨拶してくる。
「おはようチャルル。 君はよく眠ってたみたいだね」
トゥルルは度々男たちの騒ぎに起こされていたようだが、チャルルは一度寝入ってしまうとなかなか起きないのだ。
出入口の脇に
後に出てきたルマウが先に靴をつっかけて、こちらの様子を窺い待っているようだったからアクロは、
「いいから先に洗っちゃってよ」
と言って、視線の先でチャルルの近くにある水差しを示した。
「ふむ、確かに一つしかないのに俺が待っている意味は無いな」
ルマウを先にやらせて、急かされる事の無くなったアクロはゆっくりと靴にひもを通す。
履き終えて立ち上がった頃には、ルマウはもう洗い終わっていたようで、袖口で顔をぬぐいながらアクロの近くに戻ってきた。
「へいお待ち!」
水差しを手渡されたアクロは、天幕の入り口を少し離れてから、それを傾けて水を注ぎ出し、片手で受けて、溜まったそれを顔に打ち付けながらぬぐっていく。
朝の空気に顔面の水気をさらわれて、その冷気が浸透していくのと同時に意識が覚醒する。
更に水を口で受けて含み、口内をゆすいでからうがいをし、吐き出して終える。
肩口で顔に残った水をぬぐい取ると、そこにトゥルルが近づいてきた。
「おーはよっ、やっと目ぇー覚めたぁ? これ飲んでぇ、麺麭もちゃちゃっと食べちゃいなさい」
「おはようトゥルル。 いただきます」
トゥルルの手から茶碗を受け取る。
中で揺れている滑らかな白は
先ほどから姿が見えなかったのは、群れの中に行ってこれを搾ってきてくれたのだろう。
「んっ、アクロの分なの、焼きたてほっかほか」
チャルルが手渡してくれる焦げ目の付いた白を受け取る。
穀物を粉に挽いたものを水で練って、薄く延ばして焼いた、ただそれだけの簡素な麺麭だ。
上に、これも
まだ湯気の立つそれをひと齧り。
多少粉っぽいが、熱に蕩けだした
ただし口の中に水分が足りなくなるので、茶碗からちびちびと補給する。
ルマウは
すると後ろからトゥルルが小走りにやってきて、両手には茶碗がもう二つ。
迎えるチャルルはトゥルルへ
「俺たちの分を優先してくれてのか。 こりゃ参ったな」
感嘆するルマウの脛にトゥルルが軽く蹴りを食らわせる。
「ほんっとーよ。 まったくもー、しょーがないダメダメ駄メンズなんだから。 もっと感謝しなさいよぉ?」
「ははーっ、トゥルチャル様様」
しかし、とルマウは周囲を見る。
「この前来たときはもっと天幕があったと思ったけど、皆もう出発したのか?」
雰囲気でそれとなく大人数なのは把握していたが、アクロが松葉杖で歩けるようになった頃には、天幕がもうほとんど残っておらず、一昨日あたりに双子を残して最後の天幕がここを去ってしまっていた。
「んっ、もう乾季にさしかかってるの。 みんな夏営地に行ったの」
「ここだとあっちくて、山豸もそろそろ限界なかんじ。 お乳なかなか出ないしぃ。 山の高いところまで行って、餌草を探させたんだけど。 それももーそろそろ、食べつくしちゃうかもね」
「申し訳ない……僕の怪我がよくなるまで残らせてしまって」
乾季に差し掛かると、昼の気温が跳ね上がって、家畜たちの餌になる草が枯れてしまったり、低木に新しい葉がつかなくなってしまう。
しかも家畜は繊細だ。
高温自体が家畜への直接的な負担になり、暑さで山豸がへばってしまえば乳を出さなくなってしまう。
こうなるとこの生活自体が成り立たなくなってしまうのだ。
そういった事態を回避するため、より標高の高い場所へ、より北へ、乾季を前に彼らは暑中の時期を過ごす涼しい土地へ拠点の移動をはじめる。
本来、一か月前に彼女たちは出発しなければいけない所だったのだが、満身創痍のアクロを拾ってしまったばかりに移動ができず、この周辺で通える範囲の餌場へ家畜を連れて騙し騙し巡回しているのだ。
アクロは乳を飲み干しながら考える。
彼女たちはこう言うが、とうにこの地での放牧は限界を迎えているのではないか、と。
実際、辺りを見ても草木は既に白けてしおれ、乾いている。
それにいくら二人が働き者だとは言え、周囲に借りる手もなく、いつまでもこの無理が通せるものではないだろう。
そう、そもそも最後まで残っていた他の天幕だって、彼女たち二人では無理があることを承知していて、それで自分たちも限界まで居残ってくれていたのではないのか。
それが移動してしまったということが、何を意味しているのか。
彼らの生活に疎いアクロであっても、これは明白に分かる事だった。
ここは自分が去るか、もしくは後から合流を考えるべきではないだろうか。
そんな中、ルマウが提案をする。
「もう限界なんだろ? アクロも立ち上がれるようになったんだ。 これなら俺の駒に乗せられるし、こっちで預かろう。 これからは俺がアクロの面倒を見る」
はぁ?とトゥルルは声を高くする。
「どんだけ面倒見たと思ってんのよぅ。 治りましたじゃーさよならって、そうは問屋が卸さないわよ?」
「んっ、脚が治ったらこき使ってやるの。 あんまり都合のいいこと言ってんじゃないの」
少女たちは怒り出した。
「じゃあ、他にどうするって言うんだ?」
それは……と彼女たちは声を詰まらせた。
ルマウが何も言わず二人の言葉を待っていると、アクロが口を挟む。
「ルマウの駒を貸してもらえるなら、今の僕でも夏営地まで乗って行けるんじゃないかな」
しかしトゥルルは首を縦には振らなかった。
「あたしも考えたんだけどねー。 営地替えの移動をあんまし舐めないでほしいってゆーか。 アクロがいける感じかわかんないの」
それにチャルルが続く。
「んっ。 旅慣れてないと、万全な大人でもたまに落伍するの。 それにアクロが片足で駒に乗れるほど乗駒が巧いとは思えないの」
体を安定させるためには駒体を騎乗者が内股で挟み込む必要があり、それが出来ないとその負担は乗せる駒自身にも掛かることになる。
長い旅路ではどちらか、またはどちらも潰れてしまう可能性が高い、とチャルルは言っているのだ。
「街道を進めば平坦だし、大丈夫じゃないかな?」
それに対しても、今度はチャルルが難色を示した。
「んぅ、街道はあまり使いたくないの。 家畜強盗が出るの。 チャルルたちだけじゃ守り切れないの」
ルマウはふん、と鼻を鳴らして一つ。
「そうだな、女の子二人だもんな、一応は」
「はぁー? いちおーってのは何よぅ?」
これは街道に盗賊が居座っている、ということではなかった。
孤立した旅人など、街道に隣接する村や里に住む普通の人々にとって、格好の略奪対象でしかないのだ。
他の天幕たちと一緒に行動していた以前ならまだしも、少女二人とけが人が多数の家畜を連れながら旅をしている状況など、まさに襲ってくださいと言わんばかりの状況である。
「うーん、負担になってる分際で言うけど、勾配を登る駒に片足で乗る自信はないかも」
隠して後で問題になるよりは、とアクロは正直に告白した。
人目を避けて進むとしたら、それは険しい道のりを選ぶことになるだろう。
ともなれば家畜の歩も遅くなり、旅程も等しく厳しさを増していくことになる。
今の状態でなくとも、アクロにそれを越える自信はなかった。
「あとはなんだ、俺が一度アクロを預かって、街で完治させてから帰すのはどうだ?」
「んー、駄目なの。 逃げるつもりなの」
「そーよね、だって、あんたにとってアクロをあたしたちに返す意味なくなぁい? ルマウ、あんた、この国の官吏なんでしょ? あたしたちサルーキはあんたらと敵対してる征辰軍に保護されてんのよ?」
トゥルルはルマウの鼻面を指さし、チャルルがそれに頷いた。
「んっ、きっと完治してもアクロを引き留めて私たちに返さないの。 みすみす友達を敵国に降らせるほどおまえはバカじゃないの」
その話にルマウは言葉を詰まらせた。
彼が何度も見舞いをする体で、その実アクロの状態と意向を確認して、取り戻す機会を窺っていたことなど二人には看破されていたのだ。
「まー、この状態だと明日明後日でここを引き払って、街道を行くしか無い感じねぇ」
事の発端はアクロが大総督の怒りを受けて殺されかけたことにある。
ルマウは共にアクロの親友である仲間たちと必死にとりなして助命を嘆願し、気を削がれた大総督はアクロを袋に詰めて遠く荒野に捨てるよう命じた。
実行した衛兵たちに金を積んで、投棄した場所を吐かせたが、ルマウたちがその場に駆けつけた時には既に遅く、中身のない袋だけがその場に残されているのみ。
間もなく仲間たちは配属先を替えられ、残されたルマウは独りアクロを探し続けた。
そして諦めかけた頃、領土を侵して宿営しているサルーキたちに警告を与える役目を受けた先で、保護されているアクロを見つけたのだ。
深刻な怪我で身動きが取れないアクロを見て、ひとまず敵に匿われている方が都合がいいだろうと思ったが、接していくうちに双子が酷くアクロに入れ込んでいるのに気付いた。
しかし、同時に仲間のサルーキたちがそれを快く思わず、彼女たちに呆れていることも知る。
ルマウは交渉の過程でサルーキたちが移動を間近に控えていることを告げられていて、恐らく近々、彼女たちはアクロを手放すだろうと踏んでいた。
そこでアクロを引き取ればよい。
機会を逸しないように、それまで監視だけ続ければよかろう、と。
が、現実は見込みを大きく裏切る形となった。
まさか彼女たちがここまで意地を張り続けるとは、恐らくサルーキたちも思っていなかっただろう。
待っているうちに、ルマウもついに故郷に赴任させられることが決まってしまった。
それにアクロもこの国から心が離れつつある。
友との別れが近づいていることをこの時、ようやく彼は認めた。
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