第4話 腋汗と干肉


「んっ、独りで大の字に寝てるんじゃないの。 邪魔なの」


 いつの間にやら寝入ってしまっていたアクロは、体を大きく揺すられて目を覚ました。

 見やるとアクロの二の腕に少女の小さな両の手が押し付けられている。

 チャルルが簡易露営の日陰の隅へ、アクロの体を押し込めようとしていた。


 なるほど、気付くと日差しの進入角度が変わって、アクロが中心を独占する形になっている。


「ごめんチャルル、今退くよ」


 アクロが横になっていた身を起こすと、チャルルは、んぅ、と言って首を振り、アクロの股を少し割らせ、体ごと股座に潜り込んで、三角座りで収まった。

 アクロがそれを抱きかかえる形になる。


 そのまま、チャルルは水瓶を目に留めると両足をのばして、足先で蟹ばさみにしてそれを引き寄せた。


「行儀が悪いよチャルル」


「んっ、うるさいの。 座布団クッションは黙ってるの」


 言って、チャルルは首元から体重をかけてくる。

 赤い頭巾の頭を押し付けられ、視界をそれで覆われるのにたまらず、アクロはチャルルの頭の横から顔を覗かせるようにして、彼女を見た。

 チャルルは柄杓から水を取っているようだ。


 昼さがりの熱を孕んだ風が、陰の中にも押し寄せてきて、二人の体の間に熱がこもる。


「ちょっと暑いんだけど」


 アクロの言に、チャルルは、んー、とだけ返事して動く様子はない。


 彼は後ろへ退いて、チャルルから逃れようとするが、少し下がるとすぐに荷物の壁に行きついてしまった。

 チャルルの頭の位置がそれでずり下がって、アクロの腹を枕にもたれかかって、寝そべる構図となる。


「んぅ、大人しくするの。 飲みにくいの」


 柄杓の量にして半分程度、チャルルは飲むとそれを片付け、水瓶を足で伸ばして隅へやった。

 驚くことにそれらすべてをほぼ寝そべったまま行っている。

 アクロは身動きが取れなくなっていて、とりあえずチャルルの乱れた頭巾を整えてやった。


 周りで山豸やぎが鳴く。


「そう言えば、今日は戻ってくるのが早いね」


「んぅ、残ってた場所も、着いてすぐに山豸やぎが食べつくしちゃったから、帰って来たの」


 なるほど、とアクロはつぶやいて、


「トゥルルはラバを取りに行ってるよ」


「んっ、知ってるの。 手綱が無くなってたから分かるの」


 それで会話が無くなり、山豸の反芻や時々噫気する音、数歩動く足音などが二人を包む。

 チャルルも姿勢を変えたいのか、尻を浮かせるようにして身をよじり、横向きになって、頭、獣耳の部分をアクロの腹に食い込ませる。


「んっ、アクロのお腹、ころころ鳴ってるの」


 チャルルが笑うと、うん、とアクロは頷いた。


「そう言えばお昼食べ損ねちゃったな」


 手が焼けるな、とばかりにチャルルは息を吐いて、自分の服の合わせに手を突っ込んだ。

 懐、わき腹のあたりを何やら探る。

 そして掴んだものを引き出した。


「ええ……? ――チャルルさん? 君は、いつも服の中に干し肉入れてるの?」


 出されたものは二枚、一口の大きさに切られ、干された獣肉だった。


 んっ、とチャルルはその片方をアクロに押し付けてくる。

 干し肉だが、水分を含んでしっとりとしていた。


「ちょっと待って、これ、柔らかいけどもしかして」


「んっ、人狼のおばあちゃんの知恵袋なの。 保存用のカチカチに乾いた干し肉は硬くておいしくないけど、こうやって人肌でほぐすと柔らかくておいしくなるの」


 しかも生暖かい。


「んふぅ! しかも砂漠の寒い夜でも、温かく食べられるの」


 そう、その干し肉はどう考えても、チャルルの腋汗でもどされていた。

 アクロはぞっとして、どうにかして顔から除けようとするが、肉を掴んだチャルルの手がその動きを追尾する。


 しばらくそうして膠着すると、しびれを切らしたのか、彼女は横向きになっていた体を正面に戻し、アクロの腹にかける体重を増やして、彼の体を拘束した。

 アクロはぐふぅ、と呻いて大人しくなり、とうとうその肉の端を口に含まされる。


 特別何の香料も漬け込まれてはいないようだが、その干し肉から口内へ、なんだかスパイシーな風味が広がった心地がした。

 薄っすらとした塩味と、人肌の味覚。


 含ませた先を攻め口にして、アクロの口にすべてを突っ込み終えると、チャルルは笑みを一つ、自分ももう片割れを自分で口に含んで咀嚼しだした。


 肉の質はあまり良くないのか、ひどく繊維質だが、その繊維一つ一つの間は含んでいる汗汁の作用なのか、しばらくした噛み応えのあと、緩むようにほどけていく。

 そして、飲み込める状態になったら、アクロは咀嚼をそこそこに、肉を一飲みで片付けた。


 これが元々、天幕でたまに見かけた釘も打てそうな硬度の干し肉だったと言うなら、なるほど、これはこういった生活内で食べるにうってつけの方法だろう。

 水分もあって、そこまで水が欲しくもならないし。


 ……これが腋汗が戻っていたのでなければ。


 腋汗、それをアクロは再認識してしまう。


「おげーっ」


 苦渋の顔でアクロは唸った。

 チャルルは、美味しいのになんでそんな反応を示すのか、と不思議そうにそれを見つめ、わずかに音を立てて咀嚼を続けている。


 それから、一気飲みした嚥下の音がアクロの腹から伝わったようで、チャルルは眉をひそめる。


「んぅ? アクロはやっぱりおバカさんなの。 干し肉は噛んで楽しむものなの」


 チャルルはまた懐をまさぐった。


「んっ、仕方が無いからもう一枚あげるの。 大サービスなの」



「なーにやってんのよぅ、あんたたちぃ……」


 トゥルルが半眼で蔑む視線の下、移動の途中で腹を満たすために作り置きしておいた筈の干し肉へ手を付けたらしいチャルルと、何か大切な尊厳を失った面持ちのアクロがやけにべったりとくっ付きながら居た。


 疾走して逃げるらばを、さらにそれを上回る速度で回り込んで、背に飛び乗り、手綱をかける。

 これを繰り返すこと4回。

 流石にくたびれたトゥルルが騾を引き連れ、暮れる夕日に照らされながら帰って来たら、露営の陰、目の前にそれがあったのだ。


「んぅ、お……おかえりなのトゥルル。 トゥルルも……食べ――」


 そこまで言って、チャルルが押し黙る。

 明らかに機嫌の悪い双子の妹に、チャルルは経験則から身の危険を感じたのだ。


 チャルルは自分の居座っていた場所を退き、トゥルルを招き入れるとそのアクロの股座の間に座らせ、それから酌んだ水を差し出してねぎらった。


「まーったく、これだからチャルルは一人にしておけないんだからさぁ」


 トゥルルは喉を鳴らして水を飲んで、それからアクロの胸に勢いを付けて倒れ込む。

 鈍い音がしてアクロが小さく呻いた。


「朝焼いた麺麭パンの残りまで食べちゃってないでしょーね。 今晩すぐに食べられるのもうそれと凝結乳ヨーグルトしかないのよ?」


「んっ、それは平気なの。 ここに包んであるの」


 荷物の中から、薄手の毛織物の包みを取り出す。

 トゥルルはそれを見て、よろしい、と言って、それで、と続けた。


「なんでこいつはこんなになってんのよぅ」


 二度、トゥルルはアクロの胸で跳ねて、勢いを付けて倒れ込むのを繰り返す。

 それに伴ってアクロが二度鳴く。


「んぅ、それはチャルルにも分からないの。 謎なの」


「いや……ちょっと、トゥルルももう勘弁して」


 咀嚼百回。

 これがアクロに課せられた試練だった。

 チャルルに監視され、干し肉を噛み続け、口内の大半が自分の唾液で埋まって、味が分からなくなってから飲み込むことを許される。

 アクロは全身にチャルルの腋汗が巡った気分だ。


「はぁ? なーんかよく分かんない風な感じだけど、それじゃー晩御飯にして今日はもう寝ちゃう?」


 元気がないなら寝ちゃうに限るわよね、とトゥルルはアクロの胸元を離れた。



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