第7話 旅立と河水


 例のごとく、夜闇が開ける前に決まった起こされ方をしたアクロは、杖を手に立ち上がって水差しを探した。

 と、足元に無造作に置かれたそれを見つけて掴むが、そこで危うくバランスを崩しかける。

 水差しに中身が入っておらず、予想していた重みが手中に伝わらなかったからだ。


 中身を入れ忘れたのだろうか、とアクロはその隣に開け放たれたままになっている水瓶へ目を移す。

 使用時以外は蓋を閉じろ、と散々言われ続けていたので、二人にしては珍しいこともあるものだと覗き込むが、


「お水なら、ないわよ?」


 水瓶の底を見たアクロを見つけ、トゥルルはそう告げた。

 そういえば昨日は誰も水を汲みに行っていなかったな、と思い出す。


 毎日、午前中はどちらかが家畜を餌草やりに連れ出し、もう一人がどこかの水場から手桶を背負って天幕に入り、水瓶に水を足していた。

 そして午後になるまで雑多な家事をやって、それから合流して二人とも天幕から消えるのだ。


「チャルルがせーんぶ飲んじゃったから、ねぇ?」


 という腹に据えかねたような物言いから、トゥルルはどうやら残りを計算して使っていたようだが、チャルルがそれを狂わせる飲み方をしてしまったようだ。


 わざと聞こえるように言われた言葉に、トゥルル越しに、やけに小さく見えるチャルルは肩をひとつ跳ねさせてから、罰なのだろうか、独りで荷造りを始めていた。


 ところで、荷造りと言っても、荷物を手ごろな大きさで袋にまとめるだけに留まらない。

 それは言わば下ごしらえのようなもので、らばの背に縛ることからが本番になる。


 トゥルルが昨晩寝床として使っていた場所を崩しながら、積んであった荷物をチャルルの方へ持っていく。


 それを脇に、チャルルはらばの背にまず毛織物の鞍をかけた。

 留め具と紐がついていて、これを体に回して密着させる事から始まる。

 ここまでが第一の関門で、固定が緩くて体に擦れるようなことになれば、らばの背は傷だらけになる。

 無論、そうなってはそれ以降、荷物を背負う事が出来ないし、痛みにらばが機嫌を損ねれば歩みを止めてしまうから、移動すら困難になる場合もある。


 らばうまに比べ気性が大人しくて、体格も力もあるので、運搬を任せるのにうってつけなのだが、手荒な扱いには敏感なのだ。


 そして第二に、鞍の上に荷物を載せる時だが、体にかかる左右の重さと大きさの比率を均等にしてやらなければ、らばが疲れてしまう。

 だから長旅になるからには、しっかり配分しておく必要がある。

 そして第一と通じる話になるが、荷物の固定が甘いと、やはり擦れてらばが傷ついてしまう。


 そして最後に、荷物の上から、赤を地に綺麗な色柄を入れた厚手の毛織物で覆いを被せてやる。

 何しろ荒野は風が強いので、荷物に傷がついてしまわないよう保護する必要があるのと、目立つ柄で万が一にもらばが列を逸れてしまった際に、これを目印にして発見しやすくするためだ。


 一頭目に家財を、二頭三頭目に天幕の資材をそれぞれ積む。

 最後の一頭には鞍だけを付けて何も乗せず、他のらばの疲労の具合を見て荷物を移し替えるために控えさせておく。

 だから頻繁に積み解きを繰り返すので、荷物の固定には雑にならない速度も重要になってくる。


「んぅ、出来ましたなの。 反省してますなの」


 身を低くしてチャルルが言うと、よろしい、とトゥルルは頷いた。


「それじゃー、食べ物の袋とかはあたしたちで背負うから、アクロはルマウさんのうまに乗っちゃいなさい」


「あれ? 朝食は?」


 首を左右にそれらしきものを探すアクロへ、トゥルルは呆れの表情を作る。


「んもー、少しは我慢しなさいよね。 私たちのご飯は山豸やぎの後よっ。 北の支流に行って、早くお水を飲ませてあげないと、この子たちはもう半日、飲まずにいるのよ?」


 荷物を背負い込みながら話すトゥルルの姿は、すぐにでも出発することを表していた。


 アクロは出来る限り急いで、らばの列の一番最後につけられて居るうままで近づく。

 それはずいぶん上等なうまで、ルマウが山岳地帯を突っ切って走らせていたのではないか、というアクロの想像を裏打ちするような立派な様子だった。


 うまには既に木で作った枠へ皮を張った鞍がかけられていて、あとは乗るだけとなっている。


「んっ、補助は必要?」


 騎乗の構えを見せたアクロにチャルルが近付いてきた。

 彼は彼女と馬を見比べる。

 確かに、アクロが片足で乗るには、足をかけるあぶみの位置が高すぎる気がした。

 この時に限って言えば、立派なうまというのがあだになっている。


「お願いするよ。 靴、脱いだ方がいい?」


「んっ、気遣いは無用なの。 遠慮なく任せるの。 どーんとこーいなの」


 チャルルは片膝をついて、両の手を重ねて地面から浮かせた位置に構えた。

 それに応じてアクロは松葉杖を置いて、うまの鞍の前部を、うまの頭部から伸びる手綱と一緒に両手で握り込み、片足で踏み込んで、チャルルの手の内に体重を任せる様に飛び移る。


 するとチャルルは手にかかった重量を反発させるように腕を持ち上げ、


「うわっ」


 アクロは少し体を浮かせてもらう心算で頼んだのだが、チャルルは自分の背丈の首ほどの高さまで、アクロを持ち上げてしまった。


 胴上げされて尻から落ちる様に、アクロは鞍の上に、うまと十の字になる形で乗せられた。

 少々乗った衝撃が強くなってしまったが、うまは暴れずにアクロを待っている。

 よく訓練されたうまだ。


「んー、アクロ軽すぎるの。 あんまり動かないから痩せっぽちなの?」


「元々、僕はこんな感じだよ。 肉も筋もあんまり付かないんだよね」


 まるで女みたいじゃないかと、ルマウに体格を揶揄われた事を思い出す。


 それから鞍をつかんでいた両手を頼りにして、片足を駒体の反対側に渡し、あぶみに足を引っかけてようやく騎乗が完了した。


 地面に置いた松葉杖をチャルルが取り上げて、アクロによこす。


 人狼の力には並外れたものがあると聞いていたが、いざとなればチャルルはアクロを抱えて走れるんじゃないだろうか。

 そしてうまの頭越しに見える前方のらばが積む荷物を見て、天幕の構造も軽い訳がないよな、と、この二人の力について彼は認識を改める。


 その列の背後の様子を窺って、準備が整ったのを認めると、トゥルルは普段チャルルが持っていることの多い家畜追い棒を振り、


「出発するわよぅ! オォァアウゥゥゥーーーー!」


 吼えて、山豸やぎ達が従う。


 地平線が黎明に染まりだした。


 旅が始まる。



 周囲の草木に気を取られ、たまに列を逸脱しすぎた山豸やぎを追いながら、彼らは進む。


 基本、このように家畜たちには細かな軌道修正が必要なので、隊列を組む場合は、不慣れな街人や病人、けが人、幼子が混ざる場合を除いて、滅多に騎乗したまま旅をするということは少ない。


 それに、うまに騎乗すると姿勢を保つために体を伸ばす必要があり、横に対して自ずと体面積が増える。


 すると、吹き付ける強風によく晒される事になる。


「うわっ、目に塵が」


 気を取られて落駒しそうになるアクロを見かねて、日よけ用の白く手ごろな布地をチャルルが取り出してきた。


「んぅ、これを頭からかぶるの」


 頭から首、肩にかけて巻き上げると、見てくれだけはアクロも荒野の民のようになる。

 騾子にも衣装なの、とチャルルは頷いて、周囲の様子見に列へ戻って行く。


 と、そのまま列の先、向こうへ視線のをやったアクロは声を張った。


「トゥルル! チャルル! 見えてきたよ」


 乾いて白くなった丘陵の緩やかな凹凸に隠された川が、朝日に輝いている。


 視線が高い、というのもそれで一つ仕事を担えるもので、遠くの様子を確認することをアクロは任されていた。


「うん、まあ、そーね」

「んっ、知ってたの」


 二人の反応は淡泊だった。

 彼女たちは毎朝ここから水を汲んでくるし、山豸やぎの定期的な水分補給に使う場所の一つでもあったので、要するに、仕事場だったから当然の反応だ。


 一人ではしゃいでしまったアクロはうなだれて、しかし目の前の輝きに踊る胸は隠せなかった。

 乾いた土地ばかりで一か月近くいたので、流れる水、川辺でささやかに繁る緑、それだけで心が憩うのだ。


 山豸だけはアクロのそれに共感してくれるようで、水の匂いに反応してか、彼らの興味は一斉に前方に集った。

 にわかに進行が早まる。


 家畜の低い足音、常に吹く風、たまに鳴く山豸やぎ

 そこに水のせせらぎが合わさっていく。



 遠目で見た印象より、その川は大人の拳より大きめの石が並ぶ、武骨な表情をしていた。

 向こう岸まで大人一人の背丈ほどの細い流れ。


 その川水と乾いた陸地の境を、時折思い出して示すかのように、髭のように伸びた草がまばらに生えている。

 そしてそれを見つけると、柔らかい先端を狙って山豸やぎが食む。


 川縁に並んで、山豸やぎが転がる石の隙間から顔を突っ込み、水を取る。

 彼らは舐めたり、横から見てわかるほど口を開いて水を飲んだりはしない。

 水面に口先だけを浸し、定期的に喉だけを動かしている。

 吸って口内に溜め、止まって飲み下し、また吸って、飲み下す。

 なにかと常に物音を立てている彼らにしては、妙なまでに静かな光景だ。


 二人はというと、らばの荷をひとまず解いて下ろしていた。

 こうやってこまめに休息を取らせて水を与え、そして荷物を載せないらばを交代するのだ。


 アクロも何とか片足で地面に降り、うまをねぎらって撫でる。


 彼も川べりにゆっくり腰を下ろして、両手で水面を掬い上げ、顔に打ち付ける。

 こんなに十分な量の水を顔に感じるのは、それこそ久しぶりだ。

 顔から一枚、しつこくへばりついた薄膜が溶け消えるような、さっぱりとした爽快感を得る。


 そして二掬い目を口に含んで吐き、三杯目を飲む。


 染み渡る。


 アクロが目を閉じて体の喜び様を堪能していると、背後に気配が近づく。

 振り向くとトゥルルが立って、何かを差し出していた。


「ご飯よ、食べちゃったらこれから一仕事だから、アクロも手伝ってね」


 爽やかだったアクロの顔がたちまち青くなる。

 彼の目の前、彼女の手の中には、干し肉が小さな手に一握りあった。

 どこから取り出したのかは、考えるまでもない。

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