第3話 隠蔽は、真実を軽視し、怪我をする
ムハメドは清掃員の立場を利用して、細菌の特定を試みるも、肝心な細菌があるはずのゴミは厳重に管理され、特定の者しか触れることさへできなかった。しかし、ムハメドは耳寄りな情報を手に入れる。最近、研究員が激務に追われて苛立っていたり、規則を蔑ろにする行為が目立っていると言うことだ。
清掃員仲間からは、本来、指定の袋に入れなければならないゴミが、一般のゴミ袋に混ざっていることが多く、無闇に触れず、処理に困ることも多々あると言うものだった。その日から、監視カメラの死角を熟知し、一般ゴミを盗み出し、裏山で防護服を装着して、ゴミあさりの毎日を過ごしていた。実験器具、手袋、着衣、マスク、使用された薬品の空き瓶、空き袋など、手掛かりになりそうなものを片っ端に採取し、新品の手袋にそれらをこすりつけ、武漢市の海鮮市場に出向き、買い物をするふりをして、果物、野菜、魚、野生生物などこまめに手袋を変えながら、街の変化を観察する日々が続いた。
それらしき感染者がでれば、簡易ウイルス検査キットでウイルスを検出するだけだった。あとは、本国に送ればいいだけだった。なぜ、そのような調査がおこなわれるのか?それは、中酷の開発する細菌兵器が使用された時に備えて、ワクチンを作るため。また、本国がターゲットであれば阻止するためだ。他国もきな臭い噂話の真意を探っていた。アメリカのCIA、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(UK)のMi6などの諜報機関も人知れず、武漢に入り込んでいた。ムハメドの諜報機関には財力や必要器具が圧倒的に少なかった。金は掛けるな時間を掛けろ、だった。
研究員たちの口は硬かった。肝心な所に話が及ぶと、上手くはぐらかされていた。かと言って、執拗く聞けば怪しまられる。直接、研究室に入れない以上、触れられる感染者を作り出すのが一番の方法だとムハメドは考えた。
ムハメドの所属する諜報機関は、目的達成のためなら手段を選ばないことで各所に恐れられていた。無関係の犠牲者が出てもお構いなし。ムハメドは忠実に任務に勤しんでいた。
ムハメドが来中してから早くも4ヶ月が経った2019年8月頃、武漢市の華南海鮮市場付近で原因不明の肺炎が万延し始めていた。患者は高齢者が多く、誰も気に留めていなかった。
そんなある日、売れ残りや調理した後の食品ゴミを入れた箱を裏口に置いていた店の主・楊(ヤン)が、ゴミを漁っている野犬を二匹、見つけた。
「この泥棒犬が。えへへ、罰として俺が食ってやるか」
楊は棍棒を手に静かに野犬に近づいた。その気配に野犬は気づき、歯を剥いて威嚇してきた。楊は怯む事なく、駆け寄り棍棒をひと振り。野犬はぶつかり合い一匹が逃げ遅れ、棍棒の餌食になった。
「これはご馳走だ。今晩はこれで腹を満たすか、酒が旨いぞ」
楊が背を向け立ち去るのを確認したもう一匹は、漁っていたゴミから物色してそれを咥え、裏山に消え去った。それから数日して、その楊の店から二件ほど離れた店の高齢者の主が突然、気を失うように倒れ、病院に運ばれたものの死亡が確認された。その患者を診察を手伝っていた李文亮医師は、専門外だったが武漢市の華南海鮮市場付近に広がりを見せる謎の肺炎を危惧していた。
2019年12月末、中酷のメッセージアプリ「微信(ウィーチャット)」に「武漢の人々がSARSに似たウイルスに感染しており、自分の病院でも患者が隔離されている」と投稿した。それは「微信」でちょっとした話題となった。反響が広がる中、地方当局が知ることになった。
武漢市の周先旺市長も動かざるを得なかった。事が拡大すれば中央の知るところになる。それは失脚を意味していた。直様、調査団を武漢の華南海鮮市場に派遣した。表立っては、華南海鮮市場で目立ち始めた肺炎の調査だった。その調査団の内の二人が楊の店にやってきた。
「最近変わったこと、困っていることはないか」
「別にないね。あっ、そう言えば、最近、野犬が多いな、何とかしてくれ」
「野犬?
「そうだ。この間も裏に出した生ゴミを漁りやがって。最も、二匹の内、一匹は捕らえて俺が食っちまったがな」
調査団は、正直安堵した。調査に出たものの何も見つけ出されないでは、周先旺市長に叱責される。調査団のふたりは顔を見合わせ、にたりと笑うとその場を立ち去った。まもなくして、市による野犬狩りが行われた。しかし、芳しい結果は得られないだけでなく、犬の死骸さへも見つからなかった。
武漢市の周先旺市長は調査団の報告を受け、怒りが沸点に達していた。
「あの投稿をした奴を探し出せ!私を陥れるような事をしやがって。二度と嘘の情報を流さないように懲らしめてやれ」
翌朝、李医師の家にふたりの警官がやってきた。情報を入手した経路と情報を共有した理由を聞かせてくれ、と言うものだった。そう聞かれても李医師は、原因不明の肺炎が武漢を中心に広がりを見せている、としか答えようがないと職場へ出向く許可を警官に願い出た。それは聞き入れられなかった。警官たちは、署で詳しく聞かせてくれの一点張り。ついに李文亮医師は折れた。報告書に記載する際、専門用語や内容に誤りがあってならないから、確認して欲しいと言われたからだ。李医師が車に乗り込み暫くすると、両脇の警官が李文亮医師の両手を強引に拘束し、手早く手錠を掛けた。
「何をするんだ、外せ、直ぐに外すんだ」
しかし、両脇の警官は前方を見たまま身動きもしなかった。その雰囲気に殺気さへ感じた。署に無理やり連れて行かれると取調室に放り込まれた。そこに政府の要員らしき男が入ってきた。対面して座る男の顔は、何か怒りを込めた表情に思えた。僅かな沈黙は李文亮医師にとって、何時間にも感じた。背筋が凍りつとはこう言うことかと全身で噛み締めていた。
「お前は嘘の情報を流し、人民を陥れようとした罪で逮捕された」
「そんな、私は事実を言ったまでだ」
「まだそんな嘘を言いふらす気か、これは帰すのは危険だな。反省するまでここで頭を冷やすんだな」
そう言うと取調官は、部屋を出て行ったのと同時に、警官がふたり入り込んできて、李文亮医師は、連れて行かれ、狭い独房に放りこまれた。次の日、取調官が独房に直接やってきた。
「反省、する気になったか」
「反省も何も私は何も嘘は言っていない」
「そうか」
取調官は扉を開けたものの一歩も独房に入らず立ち去った。看守が扉を閉める。湿った鈍い音は、生命の危機を感じさせる威嚇に聞こえた。それから三日ほど経った。たかが三日、されど三日。考えれば考えるほど最悪な思い、考えが心も頭をも支配していった。冷静になれ、冷静になるんだ、こんな時だからこそ。奴らは、私に何をさせたいのか?したいのか?それを考えろ。考えろ。考えろ。自問自答の結果、囚われてた次の日、現れた取調官は言った、反省していないのか、と。反省とは何だ?真実を述べることか?なら、奴らの言わせたい返答をすれば、ここから出られるのか、試してみる価値はある。地元当局が過敏に反応するには公になっては政府に不都合な事柄に抵触しているからか?そうだとしたら一刻も早くここから出る手立てを打たなければ。そう考えると身の危険を犇々と感じた。今はここから出ることだ。それが駄目なら地獄だ、出口の見えない闇に引き込まれる。そう結論づけた李医師は、疲れからか、一筋の光明が見えた安堵からか、深い眠りについた。悪夢に魘され、起きた。起きてもそこは闇だった。眠れない、目が冴えて眠れない。考えまい、考えまい、とすればする程、無駄に頭が冴えた。考えるのは、悪夢の続きでしかなかった。気が変になりそうだ、いや、もうなっている。正義感など捨てろ、貝になれ、貝になるんだ、真実に関して。朝になり再び取調官がやってきた。
「反省は、したのか」
同じ質問だ。明らかに私を試している、李医師はそう感じた。
「はい、私の愚かさで、状況を見誤った事を強く反省しています。多くの人民にこの通り陳謝致します。また、また今後、私の誤った思い込みを一切他言することはありません」
「そうか、今の言葉を噛み締めておけ。喜べ、解放してやる。但し、またお前が嘘を風潮するようなことがあれば逮捕する。今度はいつでられるか分からないことを覚えておけ。今日から、お前には四六時中、監視が目を光らせるから油断はするな、それがお前のためだ」
「わ、わかりました。決して他言致しません」
「その言葉を忘れるな」
「は・はい」
李医師は、「偽の情報をネットに流さない」という旨の誓約書にサインを強要され、応じるとその日の内に解放された。後方には明らかに自分を監視する男がついて来ている。私服警官だろう。私は、貝になる。それが自分を、家族を守ることになる、そう強く心に刻み込んだ。直様、自宅に戻ろうとしたが、諦めた。家族を危険に晒したくない、相手の様子を伺うためにも職場に戻ろう。きっと、この数日間のことを職場で聞かれるだろう。家族も同じだ。ゆっくり、考える時間を作るためにも、李医師は病院に戻ることにした。
毎日のように見てきた風景が愛おしく思えた。病院に一歩踏み入れるとそこは病院とは思えないほど、騒然としていた。「何事だ、まさか」。そんな不安を抱きつつも、現実を見聞きすると単なる不安では済まされない状況になっていた。
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