第2話 隠蔽は、不都合を炙り出す
WHO(世界保健機関)は1月1月30日夜に緊急の委員会を開いた。その結果、テドロス・アダノム・ゲブレイェスス事務局長は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言をせざるを得なかった。
テドロス事務局長は記者会見で、「感染が中国以外にほかの国でも拡大する恐れがあると判断して宣言を出した」と語り、次の5点を強調した。(1)貿易や人の移動の制限は勧告しない(2)医療体制が不十分な国々を支援する(3)ワクチンや治療法、診断方法の開発を促進する(4)風評や誤った情報の拡散に対策を採る(5)患者感染者の病理データを共有する、と。
WHOは緊急事態の宣言を見送る一方で、テドロス事務局長がわざわざ中酷を訪問して秀劤併国家主席らと会見。事務方とのやり取りが通常なのに対し、し、国家主席らと密談の形式を取った。テドロスは中酷から巨額インフラ投資を受けるエチオピアの元保健相・外相。感染当事国と向き合い『公衆衛生上の緊急事態』に対処する司令塔には不適格であると疑われても仕方がない。事実、秀劤併は28日、北京を訪問したテドロスに『WHOと国際社会の客観的で公正、冷静、理性的な評価を信じる』と語った。要は、緊急事態宣言を見送るのは勿論、余計なこと言うな、言えば分かるな、と秀劤併がテドロスに圧力を掛けたと疑われても反論の余地はないだろう。その結果、テドロスは『WHOは科学と事実に基づいて判断する』と応じたものの『中酷政府が揺るぎない政治的決意を示し、迅速で効果的な措置を取ったことに敬服する』と賞賛し、的外れな発言を行うものとなった。
テドロスに同情の余地もある。出身国エチオピアと中酷には、特殊な関係があった。中酷から巨額のインフラ投資を受けるエチオピアは、中酷が推奨する巨大経済圏構想『一帯一路』のモデル国家とされる一方、膨大な債務にも苦しんでいた。国際機関のトップとして最も重要なものは権力、利権に屈しない中立性。その点でテドロス事務局長の就任は曰くつきだった。言い訳を寄せ付けない後手後手となる判断ミスは、感染拡大に拍車を掛けたとも言えなくない。
アメリカはいち早く動いた。中酷全土への渡航警戒レベルを最も高い「禁止」に引き上げ、さらに過去14日以内に中酷に滞在した外国人の入国を2月2日から拒否。事実上の中酷人の出入国の拒否だ。嘘つき中酷と揶揄するドナルド・カード大統領らしい、大胆な対応だった。他国も警戒を高めていた。中酷との間で出入国の制限を行っている国は、60ヶ国以上に及んでいた。
その中で日本は腰が引けているように見えた。被害を未然に防ぐのは重要だ。しかし、対策を強化すれば誤った情報が流れ、差別が生まれ、風評被害に新たな被害を引き起こす。日本には明治から平成まで続いてきた旧伝染病予防法と同法に基づいた隔離重点のハンセン病(らい病)対策の失敗が重くのし掛かっていた。
2019年4月某日、一人の男が武漢天河国際空港に降り立った。男の名は、ムハメド・アルサガ、イスラエルの諜報組織モサドの一員だった。ムハメドは中酷の細菌兵器の特定を命じられていた。彼は、中酷科学学院武漢病毒研究所周辺を隈なく調査した。機密性の高い建物だけに容易には侵入できない。そこで出入りする人物を尾行し、それぞれの会話を収集し、可能性を見出した。
ムハメドは研究所近くのある酒場に入り浸っていた。そこは、研究所の清掃員がよく出入りする場所だった。清掃員たちの愚痴をつぶさに記録し、親密になるための情報と方法を模索していた。ターゲットは決まった。清掃員を束ねる王李清掃長だ。中酷には明確なカースト制度が現存していた。研究員からしたら清掃員はゴミ。給与、待遇は言うまでもなく天と地、いや、宇宙と地下。不満や嫉妬の巣窟だった。ウイルスはバイ菌。そこで好んで働こうとする者はいなかった。それだけに働く者たちの結束は固く、縁故関係の巣窟ともなっていた。ムハメドは匠に王李清掃長に近づき、親交を深めていった。
「王李さん、聞いてください。政府の気まぐれで首になりそうなんですよ」
「よくある話だ、運がなかったと諦めることだな」
「それはないですよ、私の稼ぎを宛にしている親兄弟が泣きますよ」
「俺に言われてもな」
「ねぇ、王季さんは偉いんでしょ」
「まぁ、ああ、な」
王季はいつも馬鹿にされたように扱われる中で持ち上げられ、悪い気はしなかった。
「じゃ、私を雇ってください、お願いします」
「困っているのは分かるが定員があってな、空きがないんだ」
「もし、定員割れしたらお願いしますよ」
「ああ、ひとり欠けるだけで仕事量が増えるからな。まぁ、そんな事はないと思うが」
「残念だなぁ、知らない土地で家族のように思っている王季さんと働けたら、私はとっても、とっても、嬉しいです」
「そうか、嬉しいねぇ、良し、家族よ乾杯だ」
「おお」
この夜、王季は久々に気分良く酔いつぶれた。それから数日経った。
「清掃長、大変です」
「どうした」
「宇航(ユーハン)が夕べ、暴漢に襲われたらしく、重症だと」
「なぜ、宇航が。それでどうなんだ」
「仕事に復帰するまでリハビリや治療で半年程は優に掛かると言うことです。それだけではなく、ひょっとすれば後遺症が残って復帰はどうなるか」
「そんなに酷いのか」
「そうらしいです。暫く、いや、忙しくなりますね、何とかなりませんか」
「俺にそんな権限はないのはお前もよく知っているだろう」
「それは…」
「まぁ、所長に話してみるよ、期待はするな」
王季は、ダメもとで所長に相談すると「勝手にしろ。人員が増えるわけではない。そんなことで相談に来るな汚らわしい」と、呆気なく承諾を得た。
腹立たしさより、所長の気が変わらない内に急ぎ人員を補充しないと、今の人員でやれ、と言われかねない、その方に焦りを感じていた。とは言っても嫌われる仕事に二つ返事をくれる者など見当たらなかった。その晩、王季はいつもの酒場に自然と足が向いた。店に入ると先に来ていた清掃員たちと賑やかに会談するムハメドが目に止まった。そうだ、ムハメドだ。ムハメドがいるじゃないか。仲間の賛同も得やすい、うん、決まりだ、と、すぐ行動に移し、話を進めた。
「みんなの賛同を得て良かったな。でも、宇航が復帰するまでだからな、そこは分かってくれ」
「はい。一日も早い宇航さんの復帰を願っています」
「おい、ムハメド、宇航が早く復帰すればお前は首になるんだからな」
「あ、そうか、じゃ、宇航さんゆ~くり直してください」
「お前、面白い奴だなぁ、あはははは」
ムハメドは三ヶ月を掛けて、研究所への侵入に成功した。都合よく宇航が暴漢に襲われたものだ、と言う事は、知らぬが仏だ。
ムハメドは情報収集の為に冷たい視線や態度に屈せず、積極的に誰彼構わず話し掛けた。日々、異常も続けば、日常になる。頑なな態度の職員も日毎にその態度が軟化していくのが手に取るように見られた。
清掃員たちからすれば、話のも臆する人たちと気軽に話し合うムハメドのキャラクターは羨望の眼差しに値した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます