第5話 隠蔽は、不意に笑顔をみせる悪戯好き

 モサドの調査員ムハメドも、中酷科学学院武漢病毒研究所に潜入したはいいが成果を上げられずにいた。いや、正しくは上げた。当初の任務は、新型ウイルスの特定だった。それは容易に手にれることが出来た。

 病院で死者が出る。亡骸はビニール袋に包まれ、何体か集まれば車でとある場所に運ばれていた。

 ムハメドはその車を追跡し、遺体安置所を突き止める。当初は、集められた遺体は直様、土を深く掘った穴に投げ込まれ、油を撒き焼き払われていた。しかし、次第に追いつかなくなり、放置されたまま日付を跨ぐこともあった。使えるものには興味はあるが使えなくなったゴミには興味がない。ぞんざいな扱いは、遺体の扱い方に顕著に顕れていた。そこからサンプルを採取する。本国に送る。任務終了のはずだった。しかし、本国の要望は単なるサンプルではなかった。本国の欲するものは、通常考えられる以上の二次感染例を引き起こす者を指すスーパー・スプレッダーのサンプルだった。

 諜報員にとってこんな厄介なものはない。どの遺体、感染者がスーパー・スプレッダーなのか?体の部位の変化、炎症などがあれば見つけられるかも知れない。現段階では、識別が出来ない。他国の諜報員も頭を抱えていた。映画であれば、中酷科学学院武漢病毒研究所に奇襲をかけ、銃撃戦も止むなしで搾取するだろう。実際には、現実的ではない。絶対的な確証がない。下手に動けない。相手が訴えたくても訴えられない状況を作る必要があった。

 ムハメドは焦っていた。厳戒態勢が、空路や海路に及ぶようになれば、輸送手段が失くなる。今の状況が続けば、遅かれ早かれ、隠蔽は効力を失い、最悪の状況は訪れるだろう。そう思うと、焦りの色を隠せないでいた。

 アルコールの摂取量が増えた。その夜も酒場を求めて徘徊していた。中酷人の集まる店は避けたかった。ムハメドが苦悩の中にあった頃は、まだ、街中の厳戒は然程、目立つものではなかった。皆は知らないが私は知っている、そこが如何に危険な場所かを。そこで思いついたのが外国人が通う酒場だ。今は、SNSで情報交換し、旅行者が集う場所も簡単に探し出せる。ムハメドは酒場の入口を注視していた。その中で白人が多く出入りする店を見つけた。

 肌の色を気にする方ではなかったが、相手が気にしては新たな疲労感が生まれる。それでも今は選択肢がなかった。幸いなことに店内は薄暗く、スタンディングバーだったがある一角が空いていた。バーボンを注文し受け取り、円テーブルに肘を付き、一口分、喉に流し込むと頭を抱え込むようにして、これからのことを思案していた。


 「ハーイ、ひとり?悩み事?」

 

 一瞬空耳かと思ったが人の気配を感じ、声のする方を見ると白人の美しい女性が対面にいた。


 「ああ、ひとりだが」

 「私もひとり。じゃ、一緒に楽しんでいいかなぁ」

 「ああ」


 ムハメドは憔悴のせいもあり、酔の周りが速かった。元気であれば、あわよくばと思うが今はそんな気分ではなかった。白人女性は、一方的に自分は、世界を一人旅しているとか、初めての出会いを謳歌しているとか、それをyoutubeに上げて生活しているとかを羨ましくなるほどはつらつとまくし立てていた。陽気なその女性は、アメリカから来たアルティアと名乗っていた。ムハメドはアルティアの陽気さに感化され元気が漲るのを全身で確認できるまでになっていた。アルティアは、拒むムハメドに何かと理由をつけバーボンを競い合うように飲ませていた。すっかり、普段のムハメドに気分は戻っていた。


 「そんなに俺を酔わせて、どうするつもりだ」

 「それ、私の台詞よ。あんた、男だから私が酔ったら介抱してよね」

 「俺が怖くないのか」

 「なぜ?私はひとり旅が仕事みたいなものだから、人を見る目はあるのよ」

 「その目は曇ってるぜ。早めに眼科に行ったほうがいい」

 「へぇ~、ラッキーと思わないんだ、変わってるね」

 「それこそ、俺の台詞だ」

「仕事は何を…、まぁ、いいか、そんなのどうでもいいわね。それより、そんなに飲んで大丈夫」

 「明日は休みだ、お気遣いなく」


 他愛のないやりとりの間にバーボンが喉に流し込まれる。ムハメドは、中酷に来て始めて開放感を味わっていた。ムハメドに笑顔が増え、羽目を外しても神は戒めを与えないだろう、いや、寧ろ、苦労している自分に神がくださったご褒美ではないかと思うようになっていた。そんな心の変化を見透かしたようにアルティアが驚きの提案をしてきた。


 「そうなの。私たち気が合うみたいね。私の部屋に来ない、飲み直そうよ」

 「初めて会った俺を誘うのか?」

 「見た目に似合わず、野暮な事を言うのね。あら、見た目通りか」

 「五月蝿い」

 「初めて会ったって言ったよねぇ。私、一人旅が日課よ、毎日、初めて会った人ばかりよ。あなたが特別なわけじゃないわ。なに、モテたとでも思った。それなら、残念。私は一人旅の醍醐味を満喫しているだけよ」

 「いつもこんな感じで男を誘うのか?」

 「そうよ、悪い。そうそう、日本の諺に、旅の恥はかき捨て、って言うのがあるの。私にぴったりよ。本当の意味は知らないけどね。そうそう、一期一会ってなものもあったわねぇ」

 「俺も日本の大阪に一年ほどいたよ」

 「へぇ、お仕事?」

 「まぁな」

 「大阪弁、私、好きよ。何か言ってみて」

 「そうだな…武漢はもう、あかん。これからの事を思うと悪寒がするわ、ってね」

 「おかん?って、お母さんのこと?」

 「いや、怖い目に合いそうな予感がした時、鳥肌が立つ感覚かな」

 「日本語の難しい表現ね」

 「まぁな」

 「ねぇ、もっと聞きたいわ。じゃ、続きは、後で。ここは私が払うわ。気にしなくてもいいわよ。これからたんまり肉体労働をしてもらうんだから」


 そう言うとアルティアは、半ば強引にムハメドを店から連れ出した。当初は警戒していたがアルティアの開放的な性格に萎えていたムハメドの心は、癒されていた。幾度か足元をふらつかせるアルティアがムハメドに寄りかかる。その際の肌の温もりがムハメドの胸を高鳴らせていた。

 そうだ、これは真面目に働く私への神の思し召し、ご褒美だ。なら、有り難く頂くのが神への感謝になる。そう、ムハメドは思えてきた。

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