だからニゲラは涙を食べた
晴見 紘衣
だからニゲラは涙を食べた
最初に感じたのは響きだった。
「草むしりして、水やり?」
「種をまいたんですよ」
低い響きと、それよりも涼やかな高い響き。くぐもって沈む、沈んでは離れる揺れが近づいて、止まる。低い響きがさっきより大きくなって届いた。
「この狭い庭に……野菜かな?」
「花ですよ。兄が送ってきたんです。珍しい花の種が手に入ったって」
低くてゆったり震える響き。高くて弾け飛ぶような響き。ふたつの声は互い違いに震えて、真っ暗闇のむこうで光っていた。
「どんな花?」
「
「ニゲラ……聞いたことないな」
「ニゲラも黒いという意味だそうです」
「黒い花が咲くのかな」
「まさか。ニゲラを日本語に置き換えて黒種子草になったんでしょうから、黒いのは花じゃなくて種ですよ」
「へえ。じゃあどんな花が咲くんだろう」
「さあ……詳しいことは返事のついでに訊いてみます」
「お義兄さんによろしく。咲くのが楽しみだね」
ふたつの声を聞きながら、うとうとして眠った。
起きては眠り、起きては眠りを繰り返しながら、何度も声を聞いた。
低い声は「先生」で、高い声は「香代さん」だ。
思いっきり伸びをしたらお陽様が引っ張ってくれたから、暗闇から抜け出した。光を嗅いで、先生と香代さんの姿も知った。
先生の体はすらりとしていて、足音は一歩ずつ丁寧に届く。
香代さんはきびきびと歩いて、ときどきちょっと澱む。
ふたりとも、あんまり近づいてきてくれない。縁側の奥にいるのがほとんどで、たまにこっちを見て話をしている。
「蕾ができてるね」とか「葉っぱがふさふさしてるね」とか。
「けっこう伸びるんですね」とか「葉っぱに隠れて蕾がわかりにくいですね」とか。
もっと近くに来てほしかった。もっとふたりを知りたかった。だから胸をひろげて息をした。光を抱いて、顔を上げた。
「咲いたねえ。水色と紫と、白もあるね。うん、黒い花はやっぱりなかった」
「花より葉っぱが目立ちますね」
「おもしろい葉っぱだよね。細く枝分かれしてるから、ふさふさして見える。ヒゲみたいだ」
「ヒゲ? わたしにはトゲのように見えます」
「風に揺れているじゃないか。刺さないよ。ほら、やわらかい」
先生が手を伸ばしてきた。指先で軽く、さするようにわたしの肩をなでる。くすぐったくて首をすくめたら、今度は頭をなでられて、顎をすくい上げられた。
「花びらに見えるけど、花びらじゃなくて萼片なんだってね」
「じゃあ、本物の花びらは?」
「退化していて目立たないんだよ。真ん中にあるらしいんだけど、どれかな」
「不思議ですね」
「うん。見れば見るほどおもしろい」
先生の指がわたしの顎をさする。頬を軽く押された。右に左に、つぶさに、わたしに触れている。
「咲き終わると袋のような実をつけるんですって。ええと、この真ん中の、緑の膨らみが実になるのかしら?」
「種が宿るんだね。黒い種が」
「そうです。それと、たぶんこの真ん中の蔓みたいな、これだと思うんですけど、これが伸びて、まるで袋がツノを生やしているように見えるんですって」
「トゲだとかツノだとか……」
「ツノだと言ったのはわたしではなく兄です」
「わかってるよ。むくれないで」
「むくれてなんか……」
「ほんとう?」
先生の手が離れた。
ふたりが遠ざかっていく。何かを話しながら縁側に上がって、そのまま奥の暗がりに消えた。
顔がぽかぽかしている。
先生の手をおぼえた。お陽様のぬくもりに近いけど、匂いは違う。土の感触とも違う。蝶の羽ばたきとも違う。
ほどよく湿って、ふんわり温かくて、光をたっぷり集めて蜜でくるんだような、強い熱をはらんでいるのに表面は静かで、繊細な指。
こそばゆかったけれど、楽しかった。
またさわってもらいたいなあと首を伸ばしたら、風が笑った。からかうように強引に揺さぶられて、それもなんだかくすぐったかった。
先生も香代さんもなかなか来てくれない。
会いには来てくれないけど、縁側からこっちを覗いてくれるときが増えた。朝と夕、先生が「行ってきます」を言うまえと、「ただいま」を言ったあと。すこしのあいだだけれど、わたしを見ている。
だから待つ。
お陽様にぬくまって夜に冷やされ、風と踊り、雨と一緒になって歌ったり、てんとう虫とふざけあったりしながら待つ。するとふたりは近くに来てくれる。
「そういえば、そろそろ出兵があるんじゃないかって噂を聞きました」
「ロシアか」
こほん、と先生は
首をくすぐられる。ふふ、と笑って身をよじった。逃げ切れるわけないと知りつつ逃げてみたのは、風にそそのかされたからだ。
先生の指が宙に浮いて止まった。
追いかけてこないのかな。それならもう戻るよ、と先生に近づく。でも風にいたずらされて、なかなか頭を元の位置に戻せない。
指が触れる。じゃれつく風から奪うように肩を引き寄せられた。
「ニゲラの葉っぱ、好きですね」
「おもしろいからね」
「出兵すれば景気がもっと良くなりますか? そしたらお米も安くなるでしょうか」
「それは……。
「はい。大正三年。ちょうど兄が結婚した年です」
「香代さんは十八歳」
「はい。あのころはわたし、世の中が浮かれてても特に興味がわかなくて。ただ、大戦景気っていうのは理解してます。よその国の戦争に協力してるから好景気なんですよね。でも最近はお米が高くって」
「そうだね。四年前は、日英同盟を理由に青島まで行ってドイツと戦った。勝ったからには旨みがないといけないから、あれこれ要求して手に入れた。漁夫の利みたいなもんだよ。いまも戦争は続いてるからね。軍需品の輸出で好景気だ。でも、出兵したらお米が安くなるっていうのは違うかもしれないなあ」
「そうなんですか?」
「お米がいちばん必要なのは兵隊さんだからね」
「たしかに、そうですね」
「僕はね」
「はい」
話をしながら、先生の指は動かなかった。わたしの肩に指先を添えたまま、わたしを通り越してどこか遠いところを見つめていた。
「言い争いになるから人前では言わないんだけど、本音はね。大戦景気を喜ぶことができないんだ。青島のときだって、全員が生きて戻ったわけじゃないだろう。異国の地で死んだ兵隊さんがいることを思うと、どうにも祝う気持ちになれない」
「はい」
「人は、死ぬときはあっけないけど、簡単には育たないから」
声が曇っていた。指先の熱がいつもより重くて、触れられている肩がだんだん苦しくなってくる。
でも手をどけてほしいとは思わない。先生はいま曇っているから、わたしが溜め込んでいる光を分けてあげたい。だからそのまま、さわっていて。
先生の背後に立つ香代さんが、先生よりもずっと曇った目をした。曇って、雨でも降り出しそうな顔をした。
「ごめんなさい。あの子を……」
「そういう意味で言ったんじゃないよ」
慌てたように先生が香代さんを振り返る。
「謝らないで。香代さんは何も悪くないんだから。ほら、お義兄さんがニゲラを送ってきたのだって、元気を出してってことだったんじゃないのかな」
指が肩から離れる。頬をつつかれた。先生の声はさっきより明るい。でもまだすこし曇っている。
「香代さんが謝るなら僕だって――」
言葉が途切れた。ゴホゴホと咳き込む先生の顔を、香代さんが隣に近寄って覗き込む。
「大丈夫ですか」
はあ、と短く息を吐いて、先生は困ったように笑った。
「風邪が長引いているね。僕はしょっちゅう風邪を引く。きっとこの病弱な
「まさか! 先生のせいじゃ」
「ほら、香代さんもそう言う。誰も悪くないんだよ。だからもう謝らないで」
また頬をつつかれた。顔が横に揺れる。揺れて戻る。すると再びつつかれる。
楽しくなって、つつかれるために曲がった体を戻そうとした。でも待っていたのは指先じゃなかった。
先生の手のひらに体がぶつかる。ぶつかって、ちょっと離れて、もう一度ぶつかったところで包まれた。
――熱い。
先生の手は春の光みたいな温かさだったはずだ。だけどいまは、ジリジリと活発になっていく近ごろの陽射しのように、熱い。
「ところで、いつまで先生って呼ぶの?」
「――それは、ずっとですよ」
「教師をやめても?」
「やめるんですか?」
「例えばの話だよ」
「物知りだから、ずっと先生ですね」
風が笑っている。だから揺すられるままに顔を傾けて応える。でも先生と香代さんは風に応えなかった。口を閉じて、下を向いていた。
手が離れる。
その手を口元にあてがって、先生は立て続けに大きく咳をした。
先生も香代さんも来てくれなくなった。
縁側からこっちを見ていた姿もなくなった。どこにもいないというわけじゃなくて、そこにいるような気がするけど遠い。
先生の「行ってきます」と「ただいま」が聞こえなくなった。
理由はわからない。わからないことはいっぱいある。
でもわかることもある。先生は香代さんにお陽様みたいな笑顔を向けていたし、香代さんは先生の背中をそよ風みたいになでていた。
会いたいな。また近くでおしゃべりしてほしいな。
願いながら待っていたら、香代さんがやってきた。
「白、かな。青と紫も一輪ずつ。白は……みっつにしよう」
ひやっとした。
香代さんの指がわたしの腰を押さえ、冷たく尖っている物を当てて、切り離してしまった。
どうしよう。これじゃわたし、すぐに疲れてしおれてしまう。消えてしまう。
どうしてこんなことをされるんだろう。わけがわからないから、香代さんの手のなかで縮こまる。
「すこしは残さないとね。お庭が寂しくなっちゃう」
香代さんが息を吸った。長いこと吸って、深く吐き出す。そうして香代さんは、自分の額とわたしの頭をくっつけた。
先生とは違う匂いがする。蜜に似ているけど、夜露にも似ていた。
香代さんが目を閉じて黙っている。じっと動かずに、わたしとおでこをくっつけている。
じんわり、伝わってきた。
香代さんの手が震えている。おでこの奥で、手のひらのむこうで、香代さんが震えている。
香代さんは顔を上げ、赤くなった目を隠してわたしを暗がりのなかへ連れて行った。
瓶のなかには澄んだお水があって、浸かるとなかなか心地よかった。
元気をくれるお陽様の光は小さくて、慰めてくれる雨もここにはない。
だけど風は遠慮がちに様子を見に来てくれるし、なによりも先生がいた。
「ニゲラ?」
「はい。気に入っていたようなのですこしだけ摘んできました。いやでしたか?」
「まさか。ありがとう。好きな場所に置くから、香代さんは部屋に入らないで」
「はい」
「――香代さん?」
「あの」
「襖を閉めて。あんまり僕の近くにいたらいけない。声なら聞こえるから」
はい、と香代さんが答えて、スーと、こするような音をたてる。すぐに、トン、と軽い響きが伝わった。
「きのうの話なんですけど」
「うん」
「あの、もう謝らないでくださいね。先生は何も悪くないんですから」
先生が息を吸う。
「それに、
咳がこぼれ飛んだ。
先生が胸に手を当てて体を折り曲げる。もう片方の手が口を押さえる。
「先生」
香代さんが呼ぶ。すこし焦った声で、襖がわずかに動く。でもそれだけだ。香代さんは襖を開けなかった。開けなかったけど、そこにいた。
「ああ……うん、だいじょうぶ。……ありがとう」
先生がのろのろと動く。背中で息をしていた。手ぬぐいで手を拭いて、こっちを見る。わたしを見ながら、わたしの後ろにいる香代さんを見ている。
先生はいつも、ふわふわした顔で笑っていた。お陽様みたいに温かかった。
だけど、いまの先生は笑っていなかった。
これは香代さんの優しさなのだと思う。
庭に出てこなくなった先生はわたしに会ってくれない。だからわたしのほうから先生に会えるようにと、連れてきてくれたのだ。
先生と一緒に過ごすことができる。朝も昼も夜も、先生が起きているときも寝ているときも、ずっと一緒。
体がぽかぽかしてきて、頭を揺らしたくなるようで、歌ったり踊ったりしたくなる。
この気持ちを何と呼ぶのかは知らない。知らないけど知っている。この気持ちは、もう長いことわたしのなかにある。
長い、ほんとうに長いあいだ、光を知るまえからこの気持ちを育んできた。体を伸ばして風に揺られながら、さわってもらう瞬間を待っていた。
そばにいたい。ずっと一緒がいい。
香代さんが、かなえてくれた。
だけど先生はいま、とても弱っている。根っこから干からびていくような匂いがしていた。光を溜めておけず、内側に閉じ込めていたものも散り散りになろうとしている。
そんな先生のそばにいる。
だからこそ、わたしはもっと、ちゃんと、息をしようと思う。
香代さんが部屋に入ってくるのは、先生に食事を出すときだけ。そしてそれを下げるときだけ。
「暑いからね、バテちゃって」
食べ残しのごはんを見て物言いたげな目をした香代さんに、先生は笑って先回りをする。香代さんは部屋を一歩出てから口を開いた。
「それでも、食べてください」
「うん。明日は食べるよ。おやすみ」
おやすみなさい、と告げて香代さんは襖のむこうからいなくなる。
先生が夜中に何度も咳をして、苦しげに溜め息をついていることを香代さんが知っているのかどうか、わからない。
ゆっくり眠るということができないまま先生は朝を迎え、そのことを香代さんに言わない。
香代さんが先生の部屋にいちばん長くいるのは、朝だ。
おはようございますと先生に声をかけて、新しい食事を置いて、枕元の桶と手ぬぐいを新しいものに交換する。
先生が体を拭くのを手伝って、汚れた着物も取り替える。それらがすべて終わってから、わたしを連れて部屋を出る。
部屋にいるとき、ふたりは言葉をかわさない。先生がそれを許さないからだ。
わたしを包むお水が新しいものになる。この時間は心地よくて、うとうとしてしまう。
香代さんは何もしゃべらない。
ただ、さわってくる手はいつも優しい。わたしの頭をなでて、乱れた髪の毛を整えてくれる。
優しくて我慢強い手。痛みに耐えて、怖さに震えている。それを隠している手。
香代さんもわたしとおんなじだ。
先生とずっと一緒にいたいんだ。
わたしをきれいにした香代さんは、先生のいる部屋にわたしを戻してくれる。
いつものように香代さんが部屋を出て襖を閉めようとしたとき、先生が咳き込んだ。
襖から手を離して香代さんが駆け寄ろうとする。すぐに先生が手を挙げた。香代さんに、手のひらを向けた。
香代さんはピタリと動きを止めて、泣きそうな顔をして、襖を閉めた。
「だいじょうぶだよ」
先生が言う。桶の水で手を洗いながら、綿毛のような声を出す。
「香代さん、いつもありがとう。顔色が悪いように見えた。夜はちゃんと眠ってね」
香代さんが何かを言った。聞き取れなかった。
ただ、すり潰されそうな声だった。
ごはんの量を減らしてほしい、と先生は言った。
香代さんはすこし黙り、「はい」と返事をした。
「きょうのお夕飯から、量を減らします。お昼ごはんは、せめて汁物だけでも食べきってください」
わかった、と先生が答えると、香代さんの足音は遠ざかった。
お陽様の光は小さいけれど、光が運んでくる熱は部屋に居座る。先生はたくさん汗をかいていた。カラカラに渇いてしまうはずなのに、お水でも汁物でも苦しそうにして飲む。
「痛いなあ……」
お椀を置いて、喉に指を当てる。
「唾すら飲みたくない」
じっと食事を眺めて黙り込む。やがて、喉に触れていた指をこめかみに持っていき、頭をつかんだ。うんざりしたように顔をしかめる。
「こっちも――熱のせいかな……」
ぬくい風が窓から入ってきた。わたしの肩を控えめに叩いたあと、先生の背中をそっと押しに行ってくれる。
もう一度お椀を手に取った。具を口に含む。念入りに噛み砕く。飲み込むときに動きが止まる。
ゆっくり、ゆっくり時間をかけて先生はごはんを食べた。お昼ごはんも、夕ごはんも、時間をかけてなんとか食べきった。
でも次の日の食事はまた残してしまった。
おいしいんだけどね、と先生が目を伏せる。
「よくがんばりました」
先生はパッと顔を上げて閉じた襖を振り返った。
「半分も食べたじゃないですか。上出来です。明日もこの調子でお願いしますね」
先生の肩から力が抜ける。背筋がわずかに伸びる。
「がんばります」
声に笑みをのせて返事をした直後、襖から顔をそむけて仰向いた。ぎゅっと目をつむっている。
口元に浮かんでいた微笑がだんだん崩れていく。唇を震わせ、こらえるように、引き絞るように、先生は目をきつく閉じていた。
風が夜の匂いを連れてくる。蒸すようだった部屋の温度が下がる。
窓から光が覗いていた。白くて優しい月の光だ。わたしの上にそっと降り立つと、蚊帳を通り抜けて先生に影を伸ばし、まとめて包み込もうとしてくれた。
「全身に、ひろがるのかな……」
咳がおさまったあとも体を起こしたままだった先生が、ボソボソとつぶやく。
「だったら……頭痛も……」
布団の上であぐらをかいて、背中をまるめて額に拳を押しつけて、溜め息をつく。
「――悪いことをしたなあ」
低くて、かすれて、消え入りそうな声。
「こんな男と一緒になって」
先生が顔を上げた。わたしを見つめて、でも触れてはこない。蚊帳から出ないと先生の手はわたしに届かない。
「ごめんって、伝えといて。謝るなって、言われたから」
先生はちょっと笑った。わたしに笑いかけたんじゃない。自分を笑った。
「――なんて、な。花に、言ってもな」
聞くよ。先生。
聞いてるから。
「やっと名前を呼んでくれたのに」
声と一緒に吐き出した息が澱んでいる。重く沈んで、根を腐らせるほどに溜まっていく。これは先生の元気を減らしてしまう息だ。
「
からっぽの両手に、ぼんやりと目を落とす。
「長引く人が多いはず……」
うつむいて、肩を落とし、枯れ枝のような声を出す。
「肺だけじゃないなら……すぐに終わる人もいるか」
また、先生の咳が始まった。
苦しそうに体の向きを変えて、桶に近づく。あてがった手のひらは真っ赤に濡れていた。手ぬぐいを取って口を押さえる。咳は激しくなるばかりで、なかなかおさまらない。
わたしに手足があれば、いますぐ駆け寄って背中をさするのに。駆け寄りたいのに。
願ってもできないから、蚊帳越しに背中を見つめる。
元気になって。
痛みや苦しみは、わたしが吸い取る。吸い取って、そよ風に変えるから。
窓から入ってくる風みたいにはできなくて、わたしの体すら揺れないほどの小さな風だけど、きっと先生を元気にできる。そういう風だから、息をして。先生。
咳が止まった。
先生は桶の水で手ぬぐいを洗う。疲れ切った息を吐いて、瞳をわたしに向けた。
先生は香代さんの前では泣かない。
だけど、わたしの前では涙をこぼす。
先生の涙は空気に溶ける。それも吸い取る。ぜんぶ吸い取る。
願うことはひとつだけ。先生が元気になって、先生も香代さんも心からの笑顔でおしゃべりすること。
それをかなえるために、毎日、毎日、先生の悔しい気持ちを食べた。
しなびていくのがわかる。
頭が重くて、首が曲がりはじめた。まだうつむきたくないのに。
力が抜けていくせいで、水に浸かっていても上手に飲めない。
それでも息をする。
先生の呼吸が楽になるようにと、息をする。
だけど、食べきれない。
食べても食べても、吸っても吸っても、追いつかない。
「花の精を見たのは初めてだな」
先生がわたしの前で正座をしていた。とても穏やかな顔で笑っている。
「ニゲラだね? 語源はラテン語で、黒。でも黒いのは本当に種だけなんだね。庭のニゲラはもう実をつけているものがあるって香代さんが言ってたな。種が落ちたら来年また芽吹く。香代さんはきっとそれを見るね。そのとき、きみもいるのかな?」
いいえ――わたしはいま、ここにしかいない。
「そうか。きみは、ここでずっと僕に寄り添ってくれていたんだね」
先生がわたしを見ている。わたしを見て、話しかけている。
だけど――おかしいの、先生。
わたしに向かって笑いかけている先生の背後に、横たわって動かない先生がいるの。
おかしいでしょ? ねえ、先生?
「おかしくないよ。すっかり元気になったんだ。いままでだって、すごく苦しくても、ふと軽くなるようなときがあった。きみのおかげだったんだね」
いいえ。わたしには手足がないの。だから先生に駆け寄ることができなくて、背中をさすることができなかった。
口がないから励ますこともできなかったし、耳がないから声は聞こえなくて、響きを感じてただけ。だからわからない言葉もいっぱいあった。
目もないからね、ほんとは先生がどんな顔をしているのかわからないの。ただ、気配だけ。気配だけで、きっとこんな顔、こんな姿って、想像していたの。
先生は微笑んでいた。わたしをじっと見つめたまま、木漏れ日のように唇を開く。
「目も耳も口も手足もないきみが、泣いてくれるだけで充分だ」
先生の手が伸びる。わたしの頭をなでて、顔を包み込んでくれた。
「だけど僕がいま見てるきみは、目も耳も口も手足も、ちゃんとあるよ。清らかでかわいらしい女の子だ」
先生がおでこをくっつけてきた。
じんわり、伝わってくる。
ありがとうとさよなら。
先生。先生、先生。
ねえ、先生?
風が吹き抜けていく。
開け放たれた襖のむこうを探検するように、踊りながら渡っていく。庭の明るさに比べたらほんのわずかしかない陽射しが、誘うようにこっちを窺っていた。
もう、顔を上げていることができないの。
頭の上で、横で、風も光も遠くに感じる。
きのうは新しいお水をもらえなかった。だけど、かまわない。きれいなお水でもそうじゃなくても、いまのわたしには心地よさがわからない。
「枯れてしまうのね」
香代さんがわたしに手を伸ばす。
優しいはずの香代さんの手。でも、もうわからない。やわらかいのか、震えているのか、冷えているのか、湿っているのか、何にもわからなくなってしまった。
香代さんがうなだれた。わたしの上で、ごめんなさいをするように身をかがめる。
見えなくたってわかる。聞こえなくたって伝わる。
真っ赤な目。
震えている唇。
喉から絞り出したような、揺らぐ声。
「毎日、毎日、あのひとを見ていてくれてありがとうね」
香代さんの目から、きれいな雫がこぼれ落ちた。
泣かないで。先生の大切なひと。
どうか、元気を出して。
全身の力を振り絞る。
これが最後。
ありがとうとさよならを込めて、香代さんの痛みを吸い取った。
だからニゲラは涙を食べた 晴見 紘衣 @ha-rumi
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