最終話

「本当にありがとうございました!」


「いえ……」


 病院の待合室で頭を下げられるねこ。彼女に感謝しているのはトラック事故に巻き込まれた少年の母親である。


 あのあとすぐ救急車が到着し、現場を知る者としてねこも一緒に乗せられたのであった。トラックの運転手も直後に捕まったが、少年を轢いた事は否認している。

 とはいえ少年は一命を取り留めた。


 安堵に涙する母親の顔を見ると心から良かったと思える。が、しかし未来を観測するというEPRオブザーバーの事が頭にもたげる。老科学者・犬神万楽の手によるそれは今日ここに至るまでのねこの未来をことごとく的中させてきた。


 残るは一項目のみとなったが、それは一番不可解な予言とも言えた。

 ねこはプリンタ用紙を手に小首を傾げる。


「手紙を読むって……どゆこと?」


 時計を見るとすでに十六時半。

 ここまで来ると全部当たって欲しいと願う矛盾した気持ちすら芽生えてくる。そんな事を考えながら、ねこが帰ろうと待合室の長椅子から腰を浮かせた時だった。

 ねこと同い年くらいの青年が突然彼女の前に現れた。


「汐見ねこさん、ですよね?」


 青年は落ちついた口調でそう言った。彼は二言三言、言葉を付け足すと、ねこにある病室まで来て欲しいと頼んだ。

 ねこは青年に乞われるままその病室に訪れた。ひとりの老人が横たわるベッドの傍に。


「お爺さん……」


 犬神万楽は静かに眠っていた。

 すでに呼吸装置や点滴すら外されており、ただ傍らに置かれた心電図だけが弱い心拍を打っている。

 万楽の孫を名乗る青年は告げた。意識不明の状態であると。


「昨日の晩、急に……。聞かされてはいたけど確認するまで信じられなかった」


「どういう事?」


「あなたもご存知の筈だ。EPRオブザーバーを」


「あッ……」


「そうです。祖父はかつて自分の未来を観測したんです。そして自分の最後を知った。僕も小さい頃にはよく聞かされたけど、子供を喜ばせる作り話とばかり……まさか、本当の事だったなんて……」


「お爺さんは自分の最後をなんて?」


「誰ひとり信じてくれなかった自分の研究を、縁もゆかりもない女性が実証してくれるんだと、そう嬉しそうに語っていました。そしてあなたにこれを渡すようにと、昨晩倒れている祖父の傍らで見つけました」


 涙を堪えながら青年が懐から取り出したのは一通の手紙だった。

 どこにでもある何の変哲もない茶封筒。宛名は”汐見ねこさま”となっている。


「祖父は昔から自分の最後に書く手紙はラブレターだと冗談めかして言っていました。ねこさん、どうか……どうか、祖父の意図を汲んでやってください」


 震える青年の声を聞きながら、ねこは万楽の顔を見た。

 まるで肉親の臨終であるかのようにベッドにすがりつくねこ。シーツが濡れるまで、自分が泣いていることすら気が付かなかった。


「まだ! まだ、生きてるんでしょォ?」


 嗚咽が裏声になって口をつく。

 青年は床に視線を落とし首を横に振った。


「あ……あぁ……おじぃさぁん……」


 ねこの悲痛な泣き声は部屋中を哀しみに包んだ。握り締めた茶封筒がクシャクシャになる。ねこは万楽との会話を思い出していた。




 ――過去の栄光だよ……つまらん毎日さ。


 ――息子には嫌われてしまったよ。


 ――未来は不動であると……観測できると考えた。


 ――〈事象の強制力〉 時空には慣性のような強制力が働くんだよ。




「お爺さん……?」


 ねこの脳裏になにか違和感が生じた。ふと右手を見てみるとそこにはクシャクシャになった万楽からの恋文。しわを伸ばし、ねこは茶封筒を正面から見据えた。


「あの……ねこさん?」


 青年が怪訝そうな視線をねこに向ける。先程までの狼狽振りがまるで嘘のようだ。

 ねこは軽く深呼吸をする。

 心をゆっくり落ち着かせるともう一度万楽の寝顔を見た。深く閉じられたまぶたと真っ白な肌。息をしているのかどうかももう分からない。


 ――もしかしたら失敗するかも。


 ねこの感情は昂った。

 最後に大きく息を吸い込み、思いっきり茶封筒を破った。


「な! ねこさん、あんたなんて事を!」


 祖父の純潔を踏みにじられ青年は激怒した。

 だがねこはベッドに食らいついて必死に叫んでいる


「お爺さん! まだ勝負は着いてないわよ! 起きなさい! 一世一代の大勝負なんでしょ? 見逃したら大損よ!」


 ねこが万楽の手を握り声を掛け続ける。起きろ、起きろと。


「あんたいい加減に……」


 青年がねこの肩を掴み、敬愛する祖父のもとから引き離そうとしたその時である。

 万楽の枯れ枝のような指が、ねこの手を握り返した。


「あ、あぁ!」


 驚愕する青年。心電図は再び力強い波形を作る。


「せ、先生を呼んできます!」


 青年のいなくなった病室にふたりだけの世界が生まれる。

 ゆっくりとまぶたを開けた万楽の目に、泣きはらしたねこの顔が映った。


「……余計な事をしよって……」


「素直じゃないのね。嬉しいって言えば?」


「ははは……」


 ねこに気遣われ身体を起こした万楽は床に散らばった紙切れを見た。自嘲気味だった笑顔は屈託のない少年の笑顔に変わり、ねこを愛しそうに見つめる。


「手紙を読まなんだか。よく気が付いたの」


「未来は絶対変わらないんでしょ? だったらそれを利用することもできるじゃない。観測結果に翻弄されるだけが人間の運命じゃないわ! だから私は未来に逆らい続ける! この勝負、私の勝ちね!」


 ベッドの上の老科学者がかぶりを振った。

 その表情に敗北の悲壮感は感じない。


「まったく気の強い娘だな! 今回は引き分けだ!」


「な、なんでよ?」


「わしの分の観測データが古過ぎたんだ。なんしろ二十年前に一度調べたきりだからのう。観測数値にズレが生じたんだな。てっきり意識不明のまま死ぬもんだと思っとったよ」


「え~、なんか言いわけがましくない?」


「うるさいな! それよりいま何時だ?」


「十六時五十五分」


 ねこは万楽に直して貰った愛用の腕時計を見た。


「よし、ギリギリ間に合うな。ねこさんや、そこのペンを取ってくれ」


 万楽はベッド脇に置かれたサインペンを手に取ると、真っ白なシーツの上に年甲斐もなく、


 ”I love you!”


 としたためた。


「これで文句なく引き分けだろ?」


 万楽からあの哀しい笑顔はもう消えていた。

 これからは一緒に笑いあえる親友ができたのだから。




おしまい

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ディメンション・エコー ~ある老人の話~ 真野てん @heberex

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