ディメンション・エコー ~ある老人の話~

真野てん

第一話

 真夏の太陽が照りつけるグラウンドから乙女達の声が聞こえる。

 乙女と言っても数年前は、の話であるが。

 日曜の午後。商店街対抗ママさんソフトボール大会準決勝は正念場を迎えていた。七回の裏ツーアウト、一・三塁。西方寺さいほうじフライヤーズ最後の攻撃はネクストバッターズサークルに四番を残したまま終了しようとしている。


「吉田さーん! 諦めないでー! 私まで回してくれれば絶対に打つから!」


 バッターボックスに立った吉田さんは四番の汐見しおみねこから檄を貰うと、確固たる決意を込めて半歩前に動いた。

 三点のリードを受けた辻野宮つじのみやビッグマミーズのエース三上は余裕の笑みを浮かべている。過信も有ったのだろう、ついついコントロールが甘くなった。

 ツーストライク、ツーボール。一球遊ぶつもりで投じられた変化球はボール二個分インコースに外れ、半歩バッターボックスを移動した吉田さんの肩を直撃した。


「デッドボール!」


 審判がコールする。

 吉田さんは軽く肩を押さえて一塁ベースへと歩き出した。


「ねこー! 頼んだわよ、こっちは乙女の柔肌痛めてまで塁に出たんだから絶対打ちなさい!」


「ま~かせて!」


 平均年齢三十二歳の西方寺フライヤーズにあって唯一の十代。未婚で彼氏募集中の汐見ねこは満を持して打席に立った。ホームランが出れば一打逆転のチャンス。ベンチは固唾を飲んで見守っている。


 ランナーを背負い、前打者を歩かせたエース三上に隙はない。ねこは早くも追い込まれていた。ファールでねばる手もあるが、次が勝負球であると彼女は確信している。


 ねこがバットをグリップエンドぎりぎりに握り直した。エンドランはない。そう判断したエース三上は内角ストレートで充分だと思った。

 決め球が投じられる。

 狙いは空振りの三振であった。コントロールを重視した軽い球は、モーションに入った瞬間バッターボックス内で半歩退いていたねこのバットにすくわれた。


「ぜっこーきゅー!」


 キンっという澄み切った金属バットの音色。

 キャッチャーは立ち上がり、マウンドの三上は呆然とバックスクリーンを見つめていた――。




 いつしか会場の熱も冷め、残っているのは幾人かの選手だけである。


「悔しいィィィ!」


 ベンチで地団駄を踏んでいるのは誰あろう四番ライト汐見ねこであった。

 スコアボードの七回裏の得点は『0』となっている。結局の所ねこはホームランを打ち損ねたのだ。フェンスぎりぎりのセンターフライ。もうひと伸び足りなかった。


「なに言ってんの? こっちはいい夢見させて貰ったわよ。万年最下位だったウチが準決勝まで残れたんだから! 皆ねこのおかげよ」


 三児の母、吉田さんがそういうもののねこの表情は釈然としない様子である。


「もう、ねこったら。相手はあのビッグマミーズよ? 負けて当然でしょ」


「そんなことない! 皆がんばったもん! 運命なんてクソ食らえよ!」


「嫁入り前の娘がそういう事言わない。さっ、帰りましょ。買い物行かなくちゃ」


「エッ? もうそんな時間? ……ヤダ、時計止まってる~。サ~イテ~」


 高校の卒業祝いに親から貰った腕時計の針が、十二時前で止まっている。ありふれた国内メーカーのクオーツだが大事に扱っていた。どうやら電池切れらしい。


「どうしよ。これからデパート行くのも嫌だな~」


 ねこが腕時計を耳に当てたりして止まっている現実を受け入れるのに苦心していると、吉田さんはさも当然のようにこう言った。


「ウチの商店街に時計屋さんがあるじゃないか。ホラお爺さんがひとりでやってる」


「時計屋さんって、あの犬がなんとか言うアソコ?」


「そうそう、犬神時計店よ。今ならまだ間に合うわ。行ってらっしゃいよ。時間だけならケータイでも分かるけど、それはアンタの宝物なんでしょ?」


「……そうね。うん、ありがとう吉田さん。これから行ってみるわ」


 ねこはようやくベンチから腰を上げた。

 去り行くねこの背中に吉田さんの声が突き刺さる。


「ちょっと! アンタまたバット忘れてるわよ!」




 ――西方寺商店街。

 大きなアーケードが空を覆う、昔ながらの下町である。駅裏にデパートができてからは客の流れも変わってしまったが、下火と言う程の過疎化は免れていた。


 日も傾きアーケードの外は茜に染まる。

 夕飯も近い、食べ物屋からはより一層いい匂いが漂ってくる。一試合終えたねこの胃袋を特に刺激したのは肉屋のコロッケであった。


 鼻孔が自然と膨らみグルルっと腹の虫が鳴く。週に三度の花屋のバイトで生計を立てている家事手伝いの身には酷な状態であった。時計の修理にもいくら掛かるか分からない。ここはグッと我慢の子である。


「ここ……だよね?」


 商店街の最奥にある寂れた店舗の前でねこはひとり呟いた。

 掲げられた看板には犬神時計店と霞んだ文字で書かれている。時計修理よろず承り候とも謳っているので、吉田さんに勧められた店はここで間違いなさそうだ。


 シャッターはまだ降りていない。営業時間内ではあるらしかった。だがショーウインドウから中を覗いても店主の姿は見えない。


 このまま突っ立っていても仕方がないと、ねこは入店口のドアノブを押した。

 カランコロンと鴨居に仕掛けたベルが鳴る。それに負けないカチカチという時計の音がねこの耳朶を打つ。


 店内は十坪程度の狭い敷地で腕時計の陳列されたショーケースがふたつあった。壁には古めかしい鳩時計と並び、額に入った写真が掛けられている。被写体は国籍もまばらな白衣の男達でレンズに向かって爽やかな笑顔を向けていた。


 ねこが暫らく店内を見回していると、店の奥からひとりの老人が現れた。白髪、丸いレンズの銀縁メガネに切り揃えられた口髭がなんともコミカルである。


「いらっしゃい。なにか御用かな?」


 咥えた木製パイプを口から離し、ぎごちない笑顔を作る。

 ねこはその笑顔になにか引っ掛かるものを感じながら、ユニフォームのポケットから止まってしまった腕時計を取り出した。


「あ、えと、これなんですけどォ。なんか止まっちゃって……」


「ふむ、では拝見しましょう」


 老人はメガネを持ち上げ目を細める。リューズを二~三度回転させると、電池切れだとねこに告げた。


「十分くらい待ってくれれば交換できるよ? どうするね?」


 ねこはそれくらいならと思い老人の勧めで店内で電池交換を待つ事にした。

 カチャカチャと老人が腕時計の裏蓋を開ける音がする。年の頃ならもう喜寿も近いだろうに手付きも達者なもので、ねこはこれなら百まで生きるなと密かに感じた。


 手持ちぶたさのねこが再び写真に目をやる。

 先程、老人の笑顔に感じた既視感に合点がいった。


「これお爺さんですか?」


 写真の中の日本人に指を差す。すると老人は、はにかみながら相づちを打つ。


「へへ……過去の栄光って奴だね。これでも昔は学者でね。ヨーロッパで講義なんかもしていたんだよ」


「わっ博士なんだ! お爺さんすご~い。じゃあ今は悠々自適に楽隠居ってわけだ」


「はは。それはどうかねェ。先の見えたつまらん毎日さ。連れ合いにも先逝かれちまったしな」


「お子さんは~?」


「若い頃、家庭をないがしろにしてね。息子には嫌われてしまったよ。いまじゃ孫がたまに顔見せに来るだけさ……ホラ、あがったよお嬢さん」


「はや~い! お爺さん若いな~」


「若い娘がなんちゅう事を言っとる! まったく面白い子だな」


 パイプを燻らせながら老人が言う。

 ねこは再び時を刻み始めた腕時計をはめ上機嫌だ。老人に修理代二千円を支払い、また来ていいかと尋ねてみた。


「ん~? あぁそうだな……お嬢さん名前は?」


「汐見ねこ。お爺さんは?」


「犬神万楽。ねこさんや、君は必ずもう一度ここに来る筈だ。その時はぜひ”はい”と言って欲しいもんだな」


「どういう意味?」


 老人――万楽はくくく、と笑った。

 不可解な彼のセリフには訝ったものの、その時のねこにはそれ以上の追求は無意味に感じた。よくある寂しい老人の世迷言。


 ねこには万楽の哀しいジョークに感じたのだ。

 ――日もすっかり落ちた頃。ねこは自宅の居間で一息ついた。


「あ! バット忘れた!」


 本日二回目の忘れ物は時計屋の壁に立て掛けたままだ。万楽の不可解な予言は俄かに現実味を帯びる。


「まさかね……」


 一瞬だけ背筋を走ったゾクリとする感覚を飲み込んで、ねこは西方寺フライヤーズのユニフォームを脱ぎ捨ててシャワールームに消えて行った。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る