第二話

 翌日ねこは市の図書館に足を運んでいた。

 凛とした静けさの中、古い新聞記事を机上に広げ平日の図書館を独占している。嫁にも行かない家事手伝いのなせるワザだ。


 新聞は古いもので三十年前の日付もある。確認しているのはある科学者について書かれた批判記事であった。


 ――昨夜の晩御飯。食卓に上った話題のひとつに犬神時計店の話があった。母いわく犬神万楽なる人物は昔、この界隈では知らぬ者はいない程の有名人であったそうだ。


 地元が出した物理学の世界的権威ということで、当時は政財界の後押しもあって様々な大学にその名前を連ねていたが、ある事件をきっかけにして彼の名前は表舞台から忽然と消えてしまったという。


 時計店の主に収まったかつての天才科学者の哀しい笑顔が、ねこの脳裏に妙に纏わりついていた。どうせバットも取りに行かねばならないのだ。話のネタにと少し調べ物をすることにしたのである。


「え~と。犬神博士の論文に世界の物理学会が揺れる?」


 三十年前の新聞記事にはそう書かれていた。

 地方欄に載っていた本当に小さな事件だった。ねこがこの記事を見つけたのは偶然以外の何者でもない。

 難しい事はねこには理解できなかったが、万楽は気が触れたのだと書かれていた。あの老人の哀しい笑顔の背景をねこは少し垣間見た気がした。


******


 カランコロンカラン。

 ドアに付けられたベルを鳴らして、ねこが犬神時計店を訪れた。二日続けての来店。当たり前のことだが店内に変化はない。だが今日は店主の犬神万楽が最初から店番をしている。


「おじ~さん! まった来ったよ!」


 愛用のパイプを美味そうにふかして万楽は微笑んだ。


「十一時か……ま、こんなもんだろう」


「エッ?」


「いや、こちらの話だよ。用事はこれだろ? ねこさんや」


 万楽は腰掛けたカウンターの中から長い合革のケースを取り出した。ねこは照れ臭そうにそれを受け取ると舌をペロっとだして礼を言う。


「へへェ。忘れちゃいました。お爺さんの言う通りになったね。占い師でも食べていけそうね?」


「占いか? そうだな。忘れ物の事までは気が付かなんだが、ある意味占いと同じかも知れん。そんな研究を昔はやっておった……」


 遠い目をする万楽。ねこはその表情にあの哀しみを感じ取った。


「ジャーン! これな~んだ?」


 ねこはバッグから古めかしい装丁の本を取り出した。背表紙には図書館の銘が入り、そのすぐ上には著者である犬神万楽の名があった。本のタイトルは『確定された事象の観測における量子論的考察』である。ねこには海の物とも山の物とも見当が付かなかった。


「これは懐かしい……図書館へ行ったのかい? 処分されたもんだとばっかり……冥土の土産にいいもの見たな」


「なに急に老け込んでのよ? 本当は元気なくせして。昨日ね、母から聞いたの。お爺さんは有名人だったのよって。それで気になって色々調べてたんだけど……」


 ねこが急に言いよどむ。それを察した万楽がさも有りなんと目を閉じた。


「どうせ、ろくな記事は残ってなかったろ? 若気の至りという奴だ」


「お爺さんはなにをやっていた人なの? どうして、研究を続けることができなかったの?」


 ねこの率直過ぎる問いに万楽は暫し沈黙した。ややあってパイプを燻らすと、ぽつりぽつりと語り始める。


「もう三十年は前になるか……わしはオックスフォードで研究を続けておった。専門は量子物理学でな。素粒子の観測ではそこそこ名も知れておった」


「は、はァ……」


 まだ序盤だというのにねこの頭脳は思考を停止していた。高校時代の物理の成績など思い出すだけ無駄である。テストで赤点を免れるだけの勉強で近代物理学を語れという方が土台無茶な話であった。

 万楽はそんなねこを気遣うことなく話を続ける。いつしかその目には生気が宿り始めた。


「ねこさんや。アンタ未来についてどう考えるね?」


「エッ? 未来? そうねェ……いまよりももっと便利になって平和が続けばいいと思ってるわ」


「それにはなにが必要かな?」


「人間ひとりひとりがもっとちゃんと地球の事を考えたり、お互いを思いやる事……かな?」


「ふむ。それはとどのつまり、人間の心掛けひとつで未来は変えられるという事かな?」


「そうよ。私は運命なんて信じない。自分の人生だもの。やりたい事くらい自分で決めるわ」


「そうか……当時のわしは未来とは不動のものだと仮定した。もしそうであるならば、観測することが可能だと考えたのだよ」


「未来を……観測? 冗談でしょ?」


「当時もさんざんそう言われたよ。難しい説明は省くがね。この世で起こるあらゆる事象を、時空を伝達する波動であると仮定する。空間を媒質に時間という縦波が生じる時、粗密波で言えば密なる状態を現在としよう。その先、微かではあるが伝達された波があるのであれば、それはまぎれもなく確定された未来。存在が確定されているのであれば観測は可能であるとわしは考えたのだ」


「なにが省いてあるって?」


 万楽としてかなり噛み砕いて説明しているのだが、それでもまだねこには充分難解であった。だが賢しい現代っ子のねこが万楽の研究自体に即物的な価値を見出すのにはそんなに時間は掛からない。


「結局、未来が分かるってことでしょう? 凄いじゃない! 競馬の予想でもすれば大儲けよ?」


「それはちと違うなねこさん。確かにいまのわしなら当たり馬券は幾らでも分かる。だがな、それをわしが買えるかというと全く別の話になるんだ」


「どゆこと?」


「もし明日のレース結果を観測したとしよう。おそらくほぼ百パーセントの確立で全レース的中させられる。次にわしがその当たり馬券を買えるかどうかを観測してみる。結果、買えるという観測データが出ればわしは儲かるが、買えないという結果が出れば絶対に買えない。レース結果だけ分かっても意味ないだろ?」


「エッ? なんでそんなことになるのよ? 結果が分かっているなら買えばいいじゃない?」


「さっきも言ったが、未来はすでに確定しているんだ。遠い未来ほど観測にズレは生じるが、二十四時間以内の観測データはほぼ百パーセントの的中率といって言い。無理に未来を変えようとしても無駄だよ。〈事象の強制力〉が働くんだ」


「〈事象の強制力〉ってなによ?」


「慣性の法則は流石に知っとるな? あれと同じだ。起ころうとする事象は変化しにくい。未来を知った人間が結果を変えようとしても、時空には慣性のような強制力が働くから改変は不可能だ。繰り返し起きる粗密波の粗の状態でそれは強く現れ、事象に大きく影響する。馬券の例で言えば、買う直前で販売が終了したり金が盗まれるという現象が起きる筈だ」


「え~なによそれ~! じゃあサイアクの未来が分かっていても結局変えられないってわけ?」


「さっきから何度もそう言っとるだろう。人生なるようにしかならん。悪あがきはせんことだ」


「……そんなの納得できない!」


 ねこは頬を膨らませてそう言った。そんなねこを見て万楽はなにやら楽しげだ。カウンターに置かれた自身の著作物と目の前にいる負けず嫌いな女を見比べる。

 万楽はパイプの吸い口をきつく噛み締めた。


「ねこさん。ゲームをしよう。未来に逆らってみないかね?」


 万楽の老いた心臓が早鐘を打っている。頭の中は妙に静かで店内を満たしている掛け時計の音ですら聞こえてこない。


 彼女の答えを彼は一日千秋、いや一秒千秋の思いで待った。

 万楽の視線がねこの口元に注がれる。ポッテリと厚みのある艶やかな彼女の唇がゆっくりと動いた。万楽は言葉よりもむしろ唇の動きで意図を理解する。”はい”であると。


 ねこの顔には不敵な笑みすら浮かぶ。

 快活な十代の女性の具現だとでも言わんばかりに自信に満ちた瞳である。万楽にはそれだけでも眩しかった。

 暫らくして万楽が店の奥へと姿を消す。再び現れた時には両腕に大きなパラボラアンテナを抱えていた。


「なにそれ? いまから有料チャンネルでも見るわけ?」


 ねこはカウンターの上に置かれたそれを怪訝な眼差しで見た。どこからどう見ても普通のテレビアンテナ。一般家庭のベランダなんかに据え付けられたアレである。


「見るのはアンタの明日の姿。これが確定事象観測装置EPRオブザーバーだよ。まぁこれがただのアンテナなのは事実だがね。本体は大き過ぎるんで奥に置いてきた」


 よく見ればアンテナの後ろからは二本のケーブルが出ていた。

 一本は長く。店の奥の方まで伸びていっている。本体という言葉の響きにねこは昔懐かしいテレビゲームを想像したが、見当違いである可能性が高い。


 もう一本のケーブルにはUSB端子が付いている。その先にはノートパソコンがあり、万楽がなにやら操作している。どっちかと言えばそのパソコンの方が本体のようにねこには思えた。


「いまは便利な世の中でな。人間ひとり分の観測データならノートパソコンで充分演算できる。学会を追放されて時間だけはやたらとあったからな。ソフトは納得いく物ができたよ」


「……なんで科学者まで辞めちゃったの?」


「わしらの業界ってのは異端児に居場所はないんだ。未来観測なんていう誇大妄想を当時の偉いさん方はお気に召さんかったらしい。それにこの機械で自分の将来もあらかた見ちまったし、この世にもう未練なんぞ有りはせんよ」


「そういうのって哀しいよ。もし私が未来を変えられたなら、また人生に希望って持てる?」


「そうかも知れんな」


 万楽はモニター画面を見たまま答える。抑揚のない彼の返答には未来は変えらないという無言の意味合いが含まれていた。

 それをひしひしと感じたねこはまたぞろ負けず嫌いの血が騒ぐ。


「ぜぇっっったい、改心させてあげるわ! 覚えておきなさい!」


「はいはいっと。……よし、できた」


 ガタガタとプリンターが動き出す。

 A4の用紙に合計二十枚の観測データが出力されたが、ねこに渡されたのは最後の一枚きりだった。


 その紙には明日の起床時間から夕方に掛けての彼女の行動が、約一時間ごとに簡単な単語で記されている。


 ねこはそれをジッと見つめながら頷くと、今度は万楽に視線を移した。


「勝負ね。お爺さん」


「あぁ一世一代の大勝負だ。また明日会おう」


 ねこはその会話を最後に店を出た。

 三回目の忘れ物はないようだ。観測データにも忘れ物を取りに行くとは記載されていないので間違いないようである。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る