第三話

 明朝、汐見ねこは目覚ましに頼らず自然と起床した。不快な電子音による目覚めでは有り得ない爽快感が全身に満ちてゆく。

 窓を開け、気持ちのいい朝の空気を浴びる。

 ふと目にした机上の腕時計は午前七時を示していた。


「ウソ! なんで?」


 慌ててベッドに舞い戻り、目覚まし時計を確認する。針は二時の手前で止まっていた。


「止まってる……恐るべしだわ〈事象の強制力〉……」


 昨日、万楽から貰った未来の観測データには起床は七時と記されていた。ねこは検証を兼ね目覚ましの鳴動時間を三十分進めておいたのだ。結果、時計は電池切れを起こして役に立たず、普段起き慣れた時間に目が覚めたというわけだ。

 ねこは万楽の言わんとした事を今頃になってようやく理解した。


 ――朝っぱらから若干の敗北感を感じながら、ねこは居間へと降りてきた。父を会社に送り出した母親は流しで洗い物をしている。


 テレビは朝の情報番組にチャンネルが合わされ、かわいい女子アナが近所の動物園がどうこうと言っているがねこの耳には入っていない。

 深煎りのコーヒー片手に観測データの記載されたプリンタ用紙を睨みつけている。眉間には深い縦じわが寄り、母親に顔が怖いと注意される始末だ。


  七時 起床

  九時 外出

  十時 濡れる

 十二時 買う

 十四時 西へと走る

 十五時 病院へ行く

 十六時 手紙を読む


「偉そうな事言ってた割には大雑把よね。意味不明なのもあるし、なによ西へと走るって。青春ドラマじゃないんだから」


 改めて記載内容を確認すると、やたら抽象的な文が目立つ。午後からの行動ですらあまり具体的ではない。


「こんなもの簡単にしのげるわ。ようは外へ出なきゃいいのよ! そうすれば全部の予想を裏切る事ができるじゃい。甘いわね犬神万楽、この勝負貰ったわ!」


 鬼の首でもとったかのようにねこが笑う。

 するとテーブルの上で携帯電話が震えた。


「もしもーし。あ、ミサキ~! おひさ~、へェ~番号変えたんだ~」


 通話の相手は高校の同級生。懐かしさも手伝って、暫し観測データのことを忘れる。


「え? うん、うん、うん。あ、全然平気~! そこってアレでしょ? 駅前の? うん、分かった。じゃ~また後でね~。ばいば~い」


 電話を切って思い出す。〈事象の強制力〉の事を。


「ハッ! はめられた! くっそ~……」


 己の忘れっぽさには決して触れないねこなのであった。


******


 俄かに雲行きが怪しくなる中、ねこは駅前にあるカフェへと向かっていた。外出時間だけでも前倒しにしようと尽力したが、母親に要らぬ用事を押し付けられ、結局九時過ぎの出発になった。これ以上遅らせると相手を待たすことにもなる。観測データを覆すのは次なる項目へと望みを託した。

 ねこは歩きながら天を仰ぐ。


「降りそうね……降水確率十パーだったから傘持ってないのよね~。ここは……勝負!」


 そう言うが早いか、ねこは健脚を生かして駆け出した。

 混みあう繁華街を縫うように突っ切り、待ち合わせのカフェへと急いだ。


 決断の早さが功を奏したのか、雨が降り出したのと、ねこがカフェに入店したのとがほとんど同時であった。

 ねこは席に案内されると窓の外を見てほくそ笑む。


「ふっ。観測データがなんぼのもんよ! 運命は自力で切り開くものよ、おじーさん!」


「ご注文お決まりになられましたか?」


 若い女性店員が温和に尋ねる。

 足元では親子連れの客の子供達がきゃっきゃと走り回っていた。


「あ、待ち合わせをしているので、後で――」


「きゃ! ああ! すいません、お客さま! すぐタオルをお持ちします……」


 水の入ったグラスをテーブルへ置く際、店内を走り回っていた子供が店員に激突した。バランスを崩した店員の手からはグラスは滑り落ち、ねこの太ももに水をぶちまける。汚れても気にならないジーパンだったのは不幸中の幸いだが、当の親子はそそくさと店を出て行ってしまった。


「ぅおのれェ~運命め~」


 もはや怒りの矛先さえ見当違いであるのにも気が付かず、ねこは苛々を募らせ友人を待った。その後、通り雨も止み。ランチを済ませて繰り出した午後の買い物に拍車が掛かったのは言うまでもない。


 ――友人と別れた頃には時計の針も十四時を回っていた。

 両手はバーゲンセールの春・夏物で塞がっている。ねこは意地でも西へは行くまいと、携帯電話のナビ機能まで活用して自宅へ向かっていた。幸い彼女の家は北にある。

 その名の通り西にある西方寺商店街には決して近づくまい、と心に固く誓う。


 いままで使った事がないような珍しい道路を歩く。

 下町の情緒にタップリと浸れる古民家が軒を連ねる町並み。燻し銀の瓦が、傾きかけた日の光りを反射しキラキラと輝く。

 ねこのささくれ立った感情も、次第に小波へと変わりつつあった。


 ただひとつ気になる事があった。巡回中の警察官の多さである。

 一区画通るたびに違う警官と出くわすのだ。彼らの共通点は制服と、手に大きな網を持ってやや上方、古民家の屋根を見ていることだった。


 ねこは少し立ち止まる。

 訝しげに首を捻るが、警察官を呼び止めて事情を聞くのもなんだか気恥ずかしい。どうしたものかと思案していると、背後から男の怒声が響く。


「おい! 危ないぞ! 避けろ!」


「へ?」


 間抜けな声を出してねこが振り向く。すると突如として視界が暗転する。


「きゃあああ!」


 びっくりして転んだねこの上に、毛むくじゃらの赤ら顔が小首を傾げる。それは一匹の雄ザルだった。


「待てこの野郎!」


 警官の声に反応して、サルはねこから離れ逃げてゆく。口には戦利品のようにデパートの紙袋を咥えて。


「あァァァ! 私のお洋服ゥゥゥ!」


 即座に立ち上がったねこは自慢の健脚で追跡を開始する。サルの向かった方角などもはや問題ではない。少ない生活費から捻出したバーゲン品を取り返す事がなりよりの優先事項であった。


「待ァァァてェェェ!」


 現役時代は県大会二位の実力を誇った長距離ランナーのねこが猛烈な追い上げを見せる。サルも追いつかれまいと必死の形相だ。特に野性の本能で感じ取った、ねこの怨念にも似た気迫がサルの恐怖感を煽っている。


 古民家を屋根伝いに逃走していた雄ザルが、急に通りの交差点へと飛び出した。道路には自転車や歩行者もいる。困惑したサルは動きを止めてしまった。

 ねこは耳を澄ます。近くから車のクラクションが聞こえる。


「あの馬鹿ザル!」


 止まらない大型トラック。サルはまだ動けない。ねこの脳裏には一瞬、病院へ行くの文字が躍ったが足を止める事はなかった。


「怪我なんかしてたまるかァァァ!」


 気合いを入れて交差点へ飛び込んだ。

 ねこは雄ザルを抱えるとそのまま反対側の道路へと転がってゆく。トラックの運転手は罵声を上げながらその場を去った。道路に残されたのはズタボロになったワンピースだけである。


「もう! このおたんちん! びびって動けなくなるくらいなら最初から飛び込むなっつーの!」


 雄ザルも命を助けられた事が分かるらしく随分と大人しい。

 ねこは自分の身体にも異常がないことを確認すると「勝った」と思わずガッツポーズをした。

 雄ザルを抱きかかえ辺りを見渡す。

 ぼろ雑巾のようになったワンピースには正直哀しくなったが、道路脇でうずくまるひとりの少年を目の端に捉えるとドキリとした。


「ちょっと君――」


 ねこは絶句した。

 少年の右足があらぬ方向へ折れ曲がっていたのだ。

 暴走トラックの登場で動けなくなっていたのは雄ザルだけではなかったのだ。少年は青ざめた顔をして悲鳴すら上げられない程の痛みに耐えていた。


「きゅ、救急車! 早く!」


 ねこは近くにいた警官に雄ザルを引き渡し救急車を呼ぶように叫んだ。頭の中にはただ少年の安否だけが気に掛かり、観測データを覆すことなどいつの間にか忘れていた。



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