大樹に立ち、青空を天に。

ななくさつゆり

大樹に立ち、青空を天に。

 ありし日のことを、夢で見た。

 私が彼から受け取った手紙に、つづられていたあの一節。

『薄雲すら振り払われた、どこまでも高く奥へとのびていく虚空こくうの下で、僕はいだ空間にすわり、こうして君へ一筆したためている……』

 そうして私にてられた手紙もまた、ちてしまって手元にはない。

 それどころか、この世界にはもう私しかいなかった。

 いつから。

 いつ、私はこの世界で、ひとりきりになっちゃったのかな……。


 どこにでもいてどこにもいない、そんな孤独な鳥がいる。それは「ひとり」。

 人間がいなくなった世界に、私の居場所はもう作れなくて、今度はそらに住居を作った。どこまでも伸びる高い樹から生えて絡む枝——それでも私を束ねて千人分くらいはある枝だけど——その間を伝って置いただけの、質素な小屋。

 そうして空の上で暮らし始めてからしばらく経つ。訪ねびともいない。家族もいない。かといって、私が訪ねていく先も、ない。

 そんな私が目覚めた朝。昨日と同じように、今日もまた目覚めてしまった。私の寝床は、白いタオルケットが適当に体に巻き付いているだけの簡素な寝床ねどこでしかない。寝転がっていてもすずやかな風を感じられるほどには、やや冷めた朝だった。

 視線を外にやると、窓から空がのぞめる。空の青がとてもいて感じられた。下方に敷かれた行雲こううん偏西風へんせいふうに身を任せているのか、とても快適そうに流されている。ふいに、届くはずもない雲にむかって手を伸ばした。仰向けに寝転んだままで。

 シーツが頬に触れる。風にあおられているのがわかった。どうやら窓を開けっぱなしにして寝ていたらしい。それから少しして、誘われるように軒先のきさきへ出た。不思議と朽ちないサンダルを足に差して。


 眼下に広がるのは雲と大地じべた


 風に流される雲を見下ろせば、その雲間からのぞけるのは敷き詰められた土くれ、といったていの大地。そこを覆うこけのような緑が森林だろう。その大地をなだらかな海が囲んでいる。それは広く深く、この地球ほしの重力にひかれてへばりつくようだった。

 ただ、そうして広がる世界はとても穏やかで、とても物静かで、雄大で。それでいて悠久を感じさせる。耳元でそよぐ風の音すら鳴るかのような、静けさに囲まれた空間だった。

 それはとても心地いい。

 眼下の景色を眺めているだけで、頭がぼうっとしてくる。

 無常——。

 そこに彼らの面影はない。世界にはもう私ひとり。それを実感させられる。

 ただ、それでもこの世界は、途方もないほどに美しかった……。


 人間がいなくなった後も、この地球はとても快適に回っている。人間なんて、はじめから関係なかったとでも言いたげなくらいに……。

 ほんの少し——ほんの少し前まで、人間がうごめいてはふみつけ、えぐっていた大地だと思えない。私はそんな原初に還ったかのような大地を空の上から眺めていた。

 彼らの痕跡は、もうごくわずかにすら残されていない。

 生命がそばで滞在することのない住処なんて、あっという間に朽ちていく。

 そして、ついに私ひとりだけになるなんて、思ってもみなかった……。


 あなた、言わなかったかしら。

『いつか、必ず会いに行くよ』

 そう言ってくれたあなたまで、いなくなってしまったじゃない。

『たとえどんな困難が待ち受けていても。きっと』

 そのあなたは、いつ私のもとへ来てくれるの。

『きっと——十年、いや、五年——。ただ、いつになったとしても』

 その年月に、いくつの周期をかけあわせたら、今になるのだろう。

 それでも会えばわかってくれるかしら。

 言葉を交わせばわかりあえるかしら。

 ——いいえ。

 一陣の風が舞った。

 ただ、ヒトがいたありし日。

 そこに巻き戻ることはない。


 空の上から地べたを見下ろしていた。目を凝らすと、かつて海沿いの崖にあなたと過ごした草原だった原野がある。かつて掘っ立て小屋があって、陽だまりで筆を執り、物静かに時と興じるあなたがいた。そんな彼の姿だけはかろうじて思い出せる。

 その面影すら、この世界からは消えていた。

 思い出は風に浚われ、手紙は朽ちて空に散り、代わりに風が私を包んでいる。

「もう、そんなに経っていたのね。あなたと別れてから」

 ヒトが去ってからも時は過ぎて行いった。その徒然な流れだけが私を慰めてくれるのだろう。そう思いながら、今日も私は目覚めて世界を見下ろしている。

 このときはじめて、彼と過ごした記憶すら、消えかけていた自分に気づいた。

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大樹に立ち、青空を天に。 ななくさつゆり @Tuyuri_N

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