第2話 地蔵堂

 川魚の放流日のことだったろうか。麦藁帽子は自転車屋の息子や呉服屋、写真屋もかぶっていた。何年も前に死んでこの世にいない。

 

 日本海にせり出した故郷の糸島半島に冬は山陰に似る寒さが来る。

山岳地帯に朝鮮半島から風が吹き込み気温が十度低くなり、大雪に見舞われると

寒冷地の様相を示す。人びとは複雑なその変化を体感的に悟るのだ。


 正運寺へのの道は曲がりくねり、木陰が山道に雪を落としている。寺までの道沿いに家がない。歩いて一時間だが、今日は風もないし寒くもないから、昼までに行き着くと思った。爪革着の高下駄の雪をボトリボトリ山道に落としながら登る。長男の嫁が用意してくれた和尚への佃煮をふところに確かめるようにして歩いた。

 

 寺まであと三分の一というところに引き込み坂がある。くぼみに雷山地蔵と呼ばれるお堂がある。地蔵菩薩は、弥勒仏が世に現れるまで無仏の世に住み、六道の衆生を教え導くことを誓いとした菩薩とのことで、慈愛に満ちた柔和な僧形、右手に錫杖、左手に宝珠を持っておられる。

 

 地蔵堂の前まで来ると雪が降り始めた。

汚れ布を重ね着したような地蔵の笑顔に迎えられるとほほえむ気分になる。

山腹に沿った山道は休むには都合がよかったが、銀色の世界を堪能し

闊歩⦅かっぽ⦆する喜びにひたっていたのでそのまま歩き続けることにした。


 炭焼きの又しゃんか……お千代さんか…和尚がまた酒を買いに行かせとるんだろうか。雪の中を灰色の影が降りて来る。あとすこしで誰かわかるところに来ようとしている。


うつむき加減のわたしには遠くの足音というか、何かを引きづるような音しか

聞こえない

 目を上げて、動けなくなった。

雪の中に蝋人形のような影が浮き出ている。崩れそうな輪郭と灰色の……思ったのは、高祖(たかす)山にある古寺で見かけた天井画……高祖神楽の巫女たちが白い小袖に千早の舞いだすきで踊る姿が描かれていた。

 

 上半身をみせて女が近寄って来る。わたしにまだ気がついていない。

口元を袖がかくしている。


「…寒くはないですか?」出た自分の声にうろたえた。

 動かないものが動いておどろいたように、女は脇をすりぬけようとした。

布が風に揺らいで、目玉と櫛状の歯が見えた。

眼の前を横に後ろへ、わたしが来た道を後姿がはためくように降りて行く。

魚がひるがえったように消えようとしていた。


 お千代さんではなかった……

立ちすくんでいる間に、地蔵堂の坂へ消えた。

妖しい緊張がわたしを解き放たない。夢のこともあって、不思議な出会いが気になった。女が現れた山際に登って、戻ってくることを繰り返したが何も見つからなかった。雪の上には笹の葉が散らばり香りがしていた。


「雪女か…!」

子どもの時、母親が寝物語に語っていた、雪山に出る妖怪のことが

胸に浮かんだ。


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