第10話 遭遇③
── 雪女は地蔵堂の裏の地面からこっちを向いて立っていた。
私が吸い寄せられるように立ち上がり一歩踏み出して、目を外したら……
もう消えていた。
前は白い原っぱで、木の頭がとび出たところに顔が飛び出していた。
イチジクの赤茶けた葉に埋もれてツバキの花が赤い布団模様に見えた。
竹の根が凍り付いていくつも盛り上がっている。雪女の姿はどこにもない。
程なくいつの間にか、わたしは雪女を抱いているのに気がついた。
沈みこんだ手が雪のかたまりをしっかり抱いていた。
雪女の体は冷たく痛く、私の体温を吸収した。冷たさが体を突き刺して奥深く進行する。胴から下がちぎれてなくなったような感覚とともに、めまいを起こして、
まわりの景色が傾いて倒れた。
意識が遠のくと、やがて、体が浮かんで回転をはじめた。
雪女は、雪の中で体を動かしながら生気を取り戻しているように思われた。
顔の凹凸がはがれ落ち、濡れた皮膚が現れた。
鼻孔が四つ…眼は…横に飛び出して、それぞれが別の方角を見ている。
ぐるぐる動いて、縁のある目が白眼にもなる……前にも見た。
見られているものに私は変わった。雪女に抱かれた胴から上のわたしが走馬灯のように震えながら廻っていた。ぼんやりしびれた視線の先に、伏目がちの顔が動かない。獣ではない、哀しく宙を見つめる縁のある眼と小さな歯並び、それは忘れかけていた記憶──手のひらにすくいとられたものをいとおしむように見ていた眼
──主張するところを認めてもらえない悔しさにうつむいた黒い眼。
──残り少ない温かみを吸いとられ、私は気を失った。──朦朧としたその意識の中で、私を呼ぶ声が聞こえた──そして生き物が離れる動きを衝撃のように感じた。
朝日に染まったガラス障子が見える。
布団に包まれたわたしの体が畳の部屋に寝かされていた。
和尚が枕元に座り、長男と嫁の姿も見えた。
医者は今、帰っところのようだ。
「気がついたようだな」和尚が湯気の立つ湯飲みを自分の口に運びながら言った。
「まだ息があったのでな……医者が来る前に寺に運んで暖めたのがよかった。連絡があったので急いで帰ってきたが、……坊主が帰ってきても役に立たんでの」
冗談めかして言った。
だいぶ時間が経っているのだ。
「医者が来る前に逝ってしまわないか心配した」
凍死寸前の人間に対しては病院へ駆け込むにも医者に来てもらうにも、一秒の猶予がない判断と措置を迫られる。秒読みの中で長男がわたしの冷え切った体を寺に運んで、お千代さんと一緒に介抱の手を尽くしてくれたのだ。
長男は寺まで来たが、「先刻、出らしゃったばかり」とお千代さんから聞いてすぐ山道に戻った。暗くなりかけた坂道をジープで降りながら探して、薄暗い地蔵堂に山芋の包みがあるのを見つけた。裏手に回り、雪に倒れ込んだわたしを見つけたという。
「大急ぎで運び込んで介抱したというが、もう冷とうなっとって、とても助かるまいと思われた。わしにも責任があると思うて…」
和尚が鼻をすすりながら声の調子を変える。「あんなところに、気味の悪いほど満足げな表情でいたというのがよくわからんが……よか、今は何も話さんでよか」。
とにかく昨晩は、寺に泊まりこんだ長男とお千代さんが、脇目も振らずに看病してくれたのだ。田舎の内科医も電話でたたき起こして来てもらったのだという。
「葬儀が寺でダブッタらどうなることかと思ったぞ。昭男さん」
と、枕もとの数珠を持たされた。
和尚は、腎作さんの葬儀があるのでこれからまた業者の車で出かけるという。
ことの起こりを話そうとしたが、わたしはそのまま安堵の眠りに落ちていった。
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