第11話 地蔵堂再訪

 正運寺をまた訪れたが、あまり話しをせずに、ジープに和尚も同乗してもらい、

地蔵堂に降り立った。石地蔵の脇を抜けて裏側へ回った。和尚が手を合わせている。

 

 雪女が立ち止まった通路のような地面は存在しなかった。そこは、大きな平岩に囲まれた地蔵堂の柱が浸る水溜りで、竹の樋から流れ込む水が何本も、つららとなって刺さっていた。イチジクの葉が見えるところには竹の柄杓(ひしゃく)が一本、柄を跳ね上げたままて凍っている。


「ここんとだな…昭男さんが倒れとったのは」和尚が指したところに跡があり薄氷が張っている。奥の方にも低い岩があり、水の流れは竹の根をかいくぐり上を通っていた。山から流れが続いている。


 死と隣り合わせの陶酔の中、ここでわたしは女を抱いていたのか……女はわたしに体を預け、自分も水に浸して凍りついていたことになる。

わたしの体温を吸い取ったものは、最後に、水の中に離れた。

跳ねるような波の動きを衝撃に感じた。

 

 水をくみ出す容器はないか探したが、竹の柄杓(ひしゃく)以外には見当たらない。手をかけて引きはずそうした。 足元の悪いところで動く父親の袖を息子がつかんだ。


「この前の晩、恐ろしい目にあった。はじめ、浮いた幽霊のようだった……年のせいであらぬものを見たのだと思ったが、水の中にいたものには何か実在する生き物のような情念があった。

 水の中におればそやつがそれだ」この水溜りに化け物がいるかもしれないから、水をかい出してその正体を見届けたいと言いなおした。


長男は加齢で思考がおかしくなった父親を見るようななまなざしを返してきたが、

和尚は、「吉伸さん、ジープにあるバケツをとってきて、ここの水をくみ出してやってくれんかの、底はみえてくると思うんで」と言った。


 長男が工事に使うバケツをとってきて水をかい出し始めた。

落葉が泥になって沈んでいる層が出てきた。沈殿物が多い扱いにくい水溜りだ。

「この下にも、深いところがあるようだ」

 長男はあえぎながら休んだ。

「年寄りばかりで、手伝えずに悪いのう」和尚がねぎらいの言葉をかける。

「昔も水はよく流れているが、水質には問題があったようだ」と、自分の少年時代とおぼしい頃のことを口に出した。

 裏手に鉱石を採掘しはじめた山があって、小規模ながら精製する工場のようなところもあった。精製過程で生じる有害物質を含む水がふもとの田んぼに流れ出ていた。

二十年たった今は、何種類もの魚が姿を見せるし、下流でアユ釣りなども回復した。

「自転車屋の息子が、竹の輪とイチジクの葉っぱで網を作るのがうまかった。金魚掬(すく)いと言って遊んだ」わたしも、ここまで登って来た子供の頃のことを話す。


 採掘跡を埋め立てる後始末に発破(ダイナマイト)を使う作業が必須になり、不慣れなわたしの父が無防備に加担して被災した──長靴に穴があくような近い爆破から逃げ切れず負傷した。それが元で、わたしの父は半年寝たきりになって死んだのだ。

その左足を巻いて汚れた布を母が何本も洗濯して。熱湯を通し、竹竿に乾していた記憶が残っている。


「あっ、いた!」長男がバケツをもち上げた。

 溶けきらない雪が浮いた水面に、何かわからない、ゴワゴワした生き物の体表がすっと動いて見えた。やがて窪みへ追いやられて突き当たり水音を立てるようになった。

「鯉(コイ)だ!」石を置いて踏み場を作ると長男はその上を移動して追い詰める。

魚はからだの3分の2ほどを水面から出して走り回ったが、バケツの中に飛び込んだ。体長三十センチあまり、皮膚に白いまだらがあって見かけがよくない……病気にかかった魚のように見える。


「鯉(コイ)じゃない、鮎だ!」

 飼育魚には水温が変化して細菌や虫がつくと、ヒレが溶けたり、白いブツブツが出来て穴があいたりするものもあるが、バケツの中の魚はスレ傷がいっぱいで、長くて白い綿状のものが生えている。皮膚炎は完治したもののほかの傷が加わった感じだ。

 

 

魚をバケツに入れて寺へ戻ったが、和尚は部屋にこもったまま,考えごとをしているのか、なかなか出てこない。お経をよむような声も聞こえた。

わたしと長男は池の端の火鉢の部屋にとどまって彼が出てくるのを待つことにした。長男はバケツの中を覗き込みながら喜んでいる。

 

 時間があったので寺の庭に出てみた。しばらく来ない間に小さな池や人工的なものが加わっていた。腕に金色の飾りをつけた青鬼や炎の輪を背に剣を抜く仁王などの黒い彫像など…先代和尚が加えたという地獄の番人たちが並ぶ広場に足を踏み入れた。


 ステンレスの焼却炉の方に降りて来ると和尚に会った。

前の住職(先代和尚)はレンガのものを望んだが、高温大量焼却、ダイオキシンに

対応できるのでこれに決めたと和尚が話しだした.。

 

 そしてわたしの顔を見た。

「ほほう、死相が消えとりますな。昭男さん」三人で火鉢の部屋に戻った。

「寿命を超えて生きたものに違いないが……これは衰えていない、

病気跡も癒えている。生き残っただけで化け物だが、水溜りにアユがいたということも不思議だろうな」と和尚。


「昔から子供たちが登ってきていた。川で採った魚を岩のくぼみに浸して遊んだりするのは子供のやりそうなことで、……放した魚が岩の裂け目に隠れおおせたのか、忘れ去られて住み着いたものだろうか」推論を交える。

「寺参りは、モノを食ったり、残り物を投げ込んだりするから手洗い岩の下に食べ物がたまる。冬はイチジクやツバキも落ちてくる。海まで行けなかったアユにも、生き延びる条件があったのだろう…」。


 「しかし、厳しい寒さであそこは凍るのだ。氷が張り詰めて一緒に凍ってしまう。魚は何度も難にあって逃げたようだ」、話し続けた。

『外皮が剥ぎ切れるまでもがいたキズだ」「竹の根の絡んだ中で刺しぬかれた傷だろう」とわたしも言い添えた。

「寒が強かった。逃げそこねて氷付けになった──春まで命が持たない…絶体絶命に陥ったことであろう」彼は神妙な目つきで言った。

「わしの想像だが……あれは、地蔵さんに、助けを乞うたのではなかろうか」。


 耳を疑った。


これからどんな話になるのかと長男も耳をそばだてた。  

「一緒のところで長く生きた魚だ。地蔵さんも何とかしてやろうと思われたのではなかろうか……姿を変えてやり、温かい体の人間が現れたら引き入れようと待っていたのではなかろうか。昭男さんが女の姿を見たというあの日から、取り付こうとしていたにちがいない……」。


 和尚が作り上げた話で…とても信じられない。

その表情を見て、和尚が声を落とした。

「老松町の天神屋な……父親が昭男さんと同じ高校の出身じゃった。おなご(女)の姿を父親も見たと息子が言っていたことはすでに話したが、家族に囲まれての大往生であったので、地蔵さんとの関連に考えが及ばなかった」


 あの柔和な顔の地蔵さんが呉服屋の死と関連があるとすれば、わたしと因縁でつながる──糾弾されるべき生贄が先に死んだのだ。

背筋が寒くなった……信じないわけには行くまい。

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