第13話 終章
春が真近に来ているその日差しを感じて一人で家にいた。長男夫婦と孫たちは町へ出かけた。新しい乗用車が半分電気で走る構造になっており、乗り心地を楽しむために県境の高速道路まで足を延ばすと言って出かけた。
証拠があったのに……母親が関わりのある者をしっこく訊きだそうとしたであろうに、里美は手紙を表に出さなかった。捨てずにとっておこうとしたようだ。
男女共学の高校生活が思いがけぬことでかなわなくなり、里美の青春は破綻した。
父親が死んだ後の荒んだ母親との生活にまた戻ってゆかねばならなかった。
同じ気持ちでわたしも回顧しなければならない。
お前も父親を早く亡くして気丈な母親と生活する家庭にあった。
同質の境遇であったにもかかわらず、人の気持ちを顧みることなくすごした、
傲慢(ごうまん)な人生ではなかったのか。
里美はお前を好きだった。お前も悪い気持ちはしなかったはずだ。
だが、そんなことにうつつをぬかしておれない貧乏症の考えが、お前には
ひどかった。お前には男女の青春は必要なかった。
見かけだけの実直さや誠実さを取り繕えればそれでよかった。
手紙が表に出ないようにして、里美はお前に罰を与えず、お前の生き方を許したのだ。高校二年生だった若い里美、なんと……むごい、そして、つまらなかった
自分をさらに悔やむ。
自分の軽はずみと冷淡な性格をわびる相手はもういない。
何が実直で何が誠実な生き方なのか、そのわずらわしさと軽さをこの年になって
気づく……今になって涙をこぼすのだ。
手紙は燃やして、灰にしてしまうことにした。
台所から一番大きな金(かな)ダライを借りてくると、手紙を敷くように入れて
チェッカー(ガス点火器)で火をつけた。
コタツの天井板にタライを乗っけておいたら、炎が消えた後もうっすら煙が出ている。煙は天井にのぼって横に這いだした。
あとからあとから増えてのぼる。 障子の桟(さん)が見えないくらい濃くなってきた。何でこんなに煙が出るものかと訝(いぶか)り出す頃、霞のように広がって外の景色が見えなくなった。
白い気体は周囲をおそらく、屋敷の四方まで取り囲んだように思えた。
わたしは立ち上がった。
霧の中からシャン、シャンという鈴の音が聞こえてきた。
━━はらほげ地蔵
ここは長崎県の壱岐(いき)、玄海灘に浮かぶ九州で8番目の大きさを持つ離島だ。
六体の地蔵さんが海に浸(つ)かっている。はらほげ地蔵のはらほげとは、お腹に穴がほげているという意味で、6体の石地蔵が海の方を向いておられる。
遠く海際では、巫女姿の少女が舞を踊っている。鈴を振りながら踊り、踊りながら声を出して鈴を振る。 唄声は地蔵さんたちの背後にいるわたしにも聞こえてきた。
風が霧を押し流すように吹くと周囲が晴れ渡り、波打ち際の若い女の装束や裸足が
はっきり見えた。巫女姿の顔はまだ見えない。
唄にある種の音階と韻律があり、言葉の意味が耳に入って来る。
『なぜお地蔵さんは六人いるのか』……『死んだときに行く世界が六つあるから』……『お地蔵さんは苦しむ人を救ってくれる。閻魔さんになったり子供になったり』
霧がたなびく海原に閻魔大王の楼閣や人影、うごめく灯篭が現れた。そこには、
死んで何年も経つわたしの妻や父母、兄弟、さらに里美の母親や父親たちもいるのであろうか……低い声が追いかけるように調子を合わせて唄う。
みんなで唄う海の上からの大合唱──私が為した行為や考えをみんなが知ったのだ。『天国道は 生きているときに良い行いをした人が行く。地獄道は 悪い行いをした人が行く──閻魔大王が審判して地獄の責め苦を受ける』『修羅道は 争いごとで命を落とした人が戦って切り裂かれる』『畜生道では生き物を虐待した人が動物に変えられ弱肉強食におびえて暮らす』『餓鬼(がき)道では食べ物を口に入れると灰になる──餓えと渇きで腹がふくれる』『人間道では生きた人間が生活する。喜びや苦労が多い。生きていたくない人がまた行く』
正運寺の先代住職に似た閻魔大王が現れて白い眼でにらみをきかす。
入れ歯の口をもぐもぐさせながら唾(つば)を飛ばし、叫び声をあげながら鐘楼からとび降りた。少女巫女は鈴を振り、六体の石地蔵さんが並ぶところに近づいて来た。
サギが一羽、右端の地蔵さんの足元に降り立ち、波打ち際の平石に片足を乗せて眼をつぶったまま動かない……土色のまぶたがぴくりとも動かない。
思った……ここは壱岐か。ならば神楽の舞を踊るのは壱岐で里美が生んだという子供か、残された家族が育てあげた女の子にちがいないと。
いや、そうではなかった。長すぎる眉とそろった歯並び。赤の伊達襟を半襦袢と白衣の間に着けて、緋袴、無地の千早に花簪を頭に飾って神楽鈴を持つ。鈴を鳴らすことは御魂を奮い起こすと唱え、鈴の数は7、5、3、布は青(緑)、黄、赤、白、黒(紫)の5色布。"シャン、シャン、シャン、シャン、シャン”
若い里美であった。宙を見つめる黒い丸い眼をしていた。
あなたは自分のことしか考えない、問題が起こらなければ何も思わない、
利己的で無関心な男。そう言っている眼の表情をして、金色の鈴をわたしの頭上に
振り上げて打ち鳴らした。
シャキーン、ズシンー、景色が震えた。
あなたが行く世界はどれになるでしょうか、考えただけでぞっとしませんか~。
あなたのような男がいつまでも長生きしてはいけない。シャキーン。ズシンー、と、地蔵さんたちがそびえ立つ。
這い出してみると地蔵さんたちがわたしを見ていた。「迷いがあるとあらぬものを見るのだよ、昭男さん」正運時の和尚のせりふが重なった。
「老人がただのうのうと生き続けてはいけない……意味がないのだよ」。
シャキーン、ズシンーと、サギが立ち上がって羽ばたいた。
長い脚と嘴くちばし)が震えながらのびた。自分の体も姿を変えて、
シャキーン、ズシンーと体が変わって、ムカデに似た多足の長虫になった。
赤黒の斑の胴体をくねらせて波打ち際を逃げ回る。
それをサギがくわえ上げると、胴体がよじれた。
サギは空中高く跳ね上げて呑みこむ。
「うわ─!」暗い洞窟の中を落ちて行った──夢がよみがえる。
湯浴みの女が立ち上がって歯を見せた。固まったものが眼から落ちている……泣いている。赤鬼の足に無数の傷跡、汚れ布が飛んできて、わたしの体にも巻きついた。
小鬼が出てきて言った。
「お前、お天道様の下を歩けるのかい!」、と。
大きな赤鬼がわたしの頭をこづいた……ああ、両親の姿を見ていたのだ。
家族が帰ってきた時、私は離れのコタツの部屋で横たわっていた。
焦げたにおいと切れた数珠が敷居から畳の端まで散っていた。
仏壇が傾いて、父母や老妻の位牌が倒れていた。
てっきり、脳梗塞か何かの発作が起きて、自分の息は絶えていると思ったのだが、
どこも悪くない。里美は優しい道を選んでくれたようだ。
「人間道か。生きていたくない者がまた行く世界だ‼」
男の子が部屋に入って来るなり言った。
「じい……死んだの?」
わたしは孫の前に飛び出した。
「わしはまだ死なん。生きていることは修行なのだ。
これからしっかり生きるのだよ」
火箸を手にした長男が神妙な顔であらわれた。
『ムカデだ!離れていろ…刺されるぞ〛
鉄の火箸で私の体をはさみあげて、たらいの中に入れた。
それから、焚火の上にのせたまま出ていった。
やがて、虫の焼けるニオイとはじけるような音がした。
━おしまい━
鮎の眼をした雪女(改) tokuyasukn @tokuyasukn
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