第8話 遭遇
二年目、また凍るような冬が来て、雪女と出会うことになる。
家内の数珠は寺で祈祷してもらい肌身離さず持つようにした。
和尚が時々、顔を見せてくれと言うので、長男のジープの送り迎えで寺に通うことにした。
すぐに三ヶ月が立った。
年寄りの身であれば死ぬことなぞどこ吹く風、わたしが元気な様子を見せる一方、
長男は仕事が多忙になり、頻繁な同行を面倒くさがりはじめた。
私はひとりでの寺参りをまた楽しむようになった。
医者にも行った。小学校の校医をしていた医者が年老いて、息子が院長の内科病院で診療している。医者はクレアチニン(腎機能)の値が悪いと指摘するが、それ以外に悪いものがない。腎機能の低下に特有な悪い症状がまだ出ていない。
血圧やコレステロールの薬を服用して毎日よく歩き運動もしている。
現代医学では悪化を抑える療法があまりないという領域だ。
要するに、今の元気でいることを、楽しみなさいということか。
次の冬が来る頃、孫がジープに同乗した。
男の子だ。学校が終わる頃、父親と迎えに来て言う、
「じい、なぜ、お寺に来る?」
「いずれ寺で世話になるから、今のうちになじみになっておくんだ」
いつまでも健康で孫の顔を見れるのはありがたい。
また、凍るような冬が来た。
「昭男さんの死相は消えよるんだかな」
和尚から思い出したように言われた。
その日、寺にだいぶ長くいた。酒を飲む時間がもう少しあったのだが、
「波多江の甚作さんがなくならしゃったげな、この雪の日に」電話を取ったお千代さんが和尚にささやいた。
入院していた脳神経外科病院で、甚作さんが今しがた亡くなったという。
仏(ほとけ)さんの家族や縁者らが通夜の斎場に向かったという知らせだ。
──明日の具体的な予定も知らせてきた葬儀社からの連絡だ。
「葬儀社の車は五時前に迎えに来ますがよろしいでしょうか」と。
「……あん人はもう少しもつかな、今日ではなかろうということであったのだが」
和尚は出かけることをすぐ承諾した。つや(通夜)の弔いは和尚ひとりでよいが、明日の斎場での葬儀にはもう一人付き添いの僧侶が要る。
準備をはじめながら、和尚は手筈を書いたメモを見て別の寺に連絡を入れはじめた。酒が入ってしまった和尚は、うすめるためと言って水を飲みに台所に走った。
私が自分の家に電話すると、長男はまだ帰らないが、間に合うように出ていくという返事であった。
和尚は葬儀社の車で出かけた。
雪がおさまり、落ち着いた冬日和になっているので、わたしも寺を後にした。
下り坂の途中で長男のジープと出会うことになるだろう。
蛇の目傘を小脇に挟み、もらった山芋を右手に抱えて坂道を降りはじめた。
二十分もしないうちに地蔵堂の前まで降りてきた。
お堂の前は一部コンクリート舗装だが、水が出て、小高い畝(うね)が凍りついている。滑って転ばないように丹前のすそを持ち上げながら歩いた。
雪が止んだ山を背景に、地蔵堂が妙にポーと明るい。
時計をみると五時半をすぎている。冬ならば大分暗くなっている頃で、
おかしなことがあるものだな……と足を止めた。
ところが、今までになく、体がだるくなって妙に疲れを覚えてしまった。
めまいもしてきた。思わず、お堂に近づいて腰を下ろした──しばらく、休んでいるとまた雪が降り出した。
これはいかん、引き込み部分から離れているので、迎えの車には見えまい、
立ち上がろうとすると、誰か坂の上から来る様子が見えた。……では、
あの人が降りてくるまで待つかと眺めていると、地蔵堂の方へその人影が、急ぐともゆっくりともつかない足取りで、浮いたように近づいてきた。
雪のように見えるあの白い女であった。タイアをひきづるペダルのきしむような音がまた聞こえた。はっと、わたしは、戸板の影に隠れて息を殺した。
通りすぎると思いの外、女は向きを変えずにこっちの方へ来ている。
もう逃げることはできない…縁の片側に体を硬くして動けないでいた。
白い女は凍った地面を越えながら地蔵堂のひさしの下をくぐりぬけて来ると反対側に立った。それから、腰を下ろしたのだ。小さなお堂の中では間隔が二メートルもない。女は白い雪が降り積もったように目の前に坐っていた。
裏側の原っぱに雪が降り積もった小山の形が見えた。
恐ろしさを忘れて雪女を横目で観察すると、おんなは時々体を震わしている。
長い髪の人間に似せたようなそのかたちは、今日は巫女の姿ではなく、やつれて白い着物を着た雪のかたまりのような人間に見えた。
「寒くないですか…」またつまらないことを言ってしまった。
女は音もなく立ち上がり、石地蔵の背後を移動して裏手の竹やぶの前まで抜けて、後ろ向きになった。そのまま動かなくなった。
やがて、わたしをまねくかのようにように、ゆっくり振り返った。
「昭男さんはこげん大事なもんを…」寺ではお千代さんが、火鉢の横に置き忘れた数珠に気づいていた。長男のジープはふもとの家を出たばかりであった。
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