第8話 狗神の信奉者、トニック

 多分、目が覚めたのだと思う。

 確証がないのは、まぶたを上げても視界が開かないからだ。永久とこしえに続く暗闇は、一切の視覚情報をもたらさない。

 身動きもできなかった。あるいは、未だ夢現の中に囚われているのかもしれない。人間の精神とは、かくも曖昧なものだ。

 しかし哲学的問答ほど無学に不寛容なものはなく、現実は常に目の前にある。

 遅れて、少しずつ触覚が戻ってきた。この感覚は……手足を縛られている。視界を封じているのは目隠しだ。力ずくで縄を引きちぎったフロウは、目隠しを外して辺りを見回した。

 屋内。じめじめとした床に、塗装の剥がれた壁。隣ではイサミが大いびきをかいて眠っている。状況からしてトニックの潜む教会だろう。殺さず誘拐されたということだ。

 とはいえ、最初から命の心配はしていなかった。あのシスターはもっと簡単に二人を殺すことができたからだ。具体的に言えば、フロウが余所見をした瞬間にナイフで頸動脈を狙うか、あるいはもっと単純に首の骨を折ればいい。それをしなかった時点で、彼女の狙いが命に無いことはなんとなくわかっていた。

 もっとも、危険なことに変わりはない。イサミを叩き起こしたフロウは、一目散に部屋から逃げ出した。

「辛気臭い森にお似合いの辛気臭い教会だな。臭くて鼻が曲がっちまいそうだ」

 フロウの言葉にイサミが頷く。

「確かにな。あちこちから血の臭いがする」

 そういう話ではない。

「それにしても、あの女は俺達をふん縛ってどうするつもりだったんだ?」

「さあな。殺すつもりはなさそうだったが……」

 廊下の角を曲がる。突き当りの部屋の小窓から、薄ぼんやりと光が漏れていた。気配を殺して接近し、壁に耳を当てる。

「――のように、主は殺生を禁じております。それは過去に起こされた凄惨な事件を発端としておりまして」

 間違いない、あのシスターだ。この部屋の中で、誰かと話しているらしい。フロウ達が逃げ出したことも知らずに呑気なものだ。

 しかし油断はできない。あの女は視覚を封じてなお超人的な戦闘力を持っている。聴覚か嗅覚のどちらかで不足を補っているのだろう。ある意味では、目が見える相手よりも厄介だ。

 小窓から中を覗き込む。気取られないよう慎重に。

「わかりますか? かように視界を塞ぐことで主の感覚を追体験し、道を拓くのです」

 教壇に立ったトニックが、なにやら教えを説いている。

「光は空から降り注ぐわけでも、炎がもたらすわけでもありません。わたくし達人間はみな心の中に光を持っているのです」

 それを聞かされているのは――

「ですから、ヒトは自分を律することができます。あなた方は少し違うかもしれませんが……同じ人間を祖先に持つ以上、きっといつか、わかる時が来るでしょう」

 ――四肢をもぎられたドラゴニュート達だった。

 目隠しをされ椅子に縛られたドラゴニュート達は、どうやら生きているらしい。嗚咽を漏らす者、体を震わせる者、急に顎をガクガクと動かす者……どれもマトモな状態ではないが、とにかく生きているのだ。

 トニックがこちらを見た。

「あら、お目覚めになられたのですね。講義が終わりましたらお食事の時間になりますので、少々お待ち下さい」

 それからすぐに視線を戻す。フロウ達が抜け出したのを知っても、彼女はそれを咎めなかった。

「おいイサミ! あの女おかしいぞ!?」

「優しそうな顔なのにな。俺は怖くてたまらねえよぉ」

 そう。あのシスター、見てくれだけは美人なのだ。目元が隠れているので断定はできないが、あの口元は美人に違いない。ついでにスタイルも良かった。

 しかし問題はあの破綻しているとしか思えない人格だ。ネイサーが渋っていたのもよくわかる。

 それでも戦闘力は申し分ない。何より脇は美人で固めたい。

 一秒でも早く戦力を整えなければならない今、ここで引き返すわけにはいかなかった。

 彼女の言葉に従ったところで状況が好転するとは思えない。一度深呼吸して、フロウは扉を蹴破った。

「おいシスター! アタシ達の話を聞け!」

「ですから今は講義中だと申し上げたではありませんか。あと一節で終わりますのでしばしお待ち下さい」

「黙れ!」

 硝子窓を割り大きめの破片を拾い上げる。即席のナイフだ。持ち手がないのが欠点だが、フロウは手の皮が厚いので致命傷にはならない。

「早まらないでくださいな。人生は確かに限りあるものですが、その時々を有意義に噛み締めていれば少しぐらい落ち着いていられる時間もあるはずです」

「確かにな。だが!」

 ほんの一瞬で距離を詰め、白い首筋に硝子を添える。

「喉元にナイフを突きつけられても同じことを言えるのか?」

 少しばかりの沈黙の後、ようやくトニックはこう言った。

「……わかりました。早いですが、食事の時間にしましょう」

 やたらと食事にこだわる女だ。とはいえちょうど腹も減ってきたのでありがたくいただくとしよう。毒を仕込まれる可能性もあるが、フロウの鋼鉄の胃袋に毒物は一切通用しないのであまり問題はない。イサミは頑張ってくれ。



「鹿のスープともも肉の燻製です」

 意外と肉食だった。

「おし、いただくぜ」

「うっひょ~、うまそうだな。いただきます!」

 味も悪くない。少しばかり薄味なきらいもあるが、これは好みの問題だろう。

 素材の味に舌鼓をうつ。何か忘れている気もするが……。ちらりとトニックを見やると、スープをドラゴニュート達に食べさせていた。ハッとして思い出す。そうだ。こいつらをぶっ殺す仲間を集めに来たのだった。

「おいおい、そいつらに飯なんか食わせなくていいだろ。どうせ殺すんだから」

「心外です。わたくしは殺生などしません」

「飯に入ってる肉はなんだよ」

「足を一本拝借しているだけです。後は野に返しています」

 まどろっこしいことを。

「戒律か? 今はそんなことにこだわってる暇なんてねえんだよ」

「戒律とは自分自身の在り方を定めるものです。人間性とはどこまでも曖昧模糊なもの。自らを律しなければどこまでも堕落してしまいます」

 その物言いが鼻につく。

「ふざけんじゃねえ。ダルマにすんのも殺すのも大して変わらねえだろうがよ」

「わたくしは……!」

 フロウは声を張り上げる。

「生きてるっていうのはな! 自分で自分を思うように動かせて初めて言うんだよ! 手足もぎ取って椅子に縛り付けられてる連中なんて死んでるのと変わらねえ!!」

 柄にもなく激高したフロウを、イサミがどうどうとなだめた。

「まあまあ、あんまカッカすんなよ」

「お、ああ……わりい」

 ちらとトニックを見やる。フロウの怒声に気圧されたのか、肩をすくめて爪を噛んでいた。噛み跡はなかったはずだが……古い癖なのだろうか。

 ここから話をどう転がそうか。そう思った矢先、外で物音がした。

「この辺りで偵察兵が行方不明になっている」

「例の奴らの基地かもしれん。徹底的に破壊するぞ!」

 空から声が振ってくる。状況を理解し、フロウはトニックの手を引いた。

「こっちだ!」

 刹那、教室の屋根を巨大な足が踏み抜く。メガニュートだ。逃げ遅れたドラゴニュートが下敷きになる中、三人は教会の外に出る。

 こんなこともあろうかと、最寄りのドッグにヴォルガンテスを待機させておいた。隠された出入り口に飛び込めば、コックピットまで直通だ。

「な、なんなんです!? これは!?」

「つべこべ言わずに手を動かせ!」

 三人が腕を通すと、水晶の瞳に炎が宿る。

 フロウ、トニック、イサミ――今、遂に三人の戦士が揃った。ヴォルガンテスの新たなるサーガが始まる。

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