悪魔の所業

真花

悪魔の所業

 豚はボロをまとって二本足で教会の門をくぐって来た。

 信者は誰も居ない、私だけが神父として次に来る迷い子のために立っている。

 豚は一歩一歩近付いて来る。

 悪魔だろうか。しかしわざわざここに来るだろうか。

 豚はまっすぐに私の方へ向かっている。

 私が見てる幻覚なのだろうか。幻覚と言うのはこんなにリアルなのか。

 豚は躊躇いなく進んで来る。

 何者で、何をしに来たんだ。逃げるか、戦うか。

 豚は神父の前。

「あの」

 豚が喋った。言語的コミュニケーションが出来る。その理解が神父を神父に戻す。役割が恐怖も葛藤も押し込める。

「はい、どうされましたか」

 豚はうやうやしく一礼すると神父の目をじっと覗き込む。

「私、メビウスと申します。今日、この村に引っ越してまいりました。今後、この教会に通わせて頂きたくご挨拶とご許可を頂きに参りました。どうぞよろしくお願いします」

 敬虔なのか。しかし。

「分かりました。ですが、二、三質問をさせて頂いてもよろしいでしょうか」

 直ぐに許可が出なかったことが不満なのか、メビウスの鼻息が急に荒くなる。危害の予感に後ずさりしそうになる足を無理矢理に踏ん張らせる。動揺に表情を崩さないのは職業上の技術で問題なく出来る。

「いや、確認するだけですから。メビウスさん、あなたは悪魔ではありませんよね」

 ブフー、と大きく息を吐き出すメビウス。

「私のどこが悪魔に見えるんですか、違います」

 一枚分の怒気、これくらいなら御しきれる。とは言え見た目だけで判断しようとしたことで傷付けたのだろう、だが次も見た目で決め付ける質問だ。

「見た所、人間ではないように思えるのですが、元人間とかなのでしょうか」

 メビウスは外見のコンプレックスに触れられた思春期のように曇った、積乱雲のような雷を伴った、顔になる。

「神父様、私は人間だったことはありません。豚です。生まれたときからずっと、豚です。父も母も姉のクラインも豚です」

「そうですか。でも、どうして豚なのに立って歩き、喋るのですか」

「そんなの知りません。一族みんながそうしているから私もそうしているだけです。豚が喋って、何か困ることでもあるんですか」

 神の前の平等には食肉用の家畜は含まれない。しかし、人語を解して立ち歩く一族として豚があるとしたら、これは家畜ではない、人間に類するものとして扱わなくてはいけないだろう。だから彼女が喋って困ることはない。そう言う豚が居るということを知らなかった私の不勉強の問題だ。何より信心があるからここに今彼女は立っている。悪魔でも家畜でもないのならば受け入れるしかないだろう。

「失礼しました。困りません。で、メビウスさんは当教会に通われたいと言うことでしたね。問題ありません、どうぞいらしてください」

 そこでやっとメビウスはずっと張っていた緊張を緩めたかのように、薄く笑った。それは頭部の醜さと相まって、挑発しているように見える。

「ありがとうございます。神父様、お布施を食べ物で持ってくることは許されますでしょうか」

「もちろんです」

「明日、一品持って参ります、どうぞお納め下さい」

 メビウスはもう一度深く礼をして、来たときと同じ速度で門に向かって歩いてゆく。

 殆どのお布施は教会で消費する。それを超えてしまった場合には日曜礼拝などのときに信者に振る舞う。だからもし明日メビウスが持って来る食料が足が速いものなら私が食べるし、そうでなくて量が多ければ振る舞いリストに載せる。

 扉が閉まる様を見続けて、見届けた途端に全身から力が抜ける。教会が取り戻した静寂に、空間が蝕まれていたのだということに気付く。本当に受け入れてよかったのだろうか。理論的にはそれ以外の選択肢はない。そうだ。私が違和感を感じているのは彼女が豚だからではなく、彼女の内面に一抹の危機を察知しているからなのだ。しかし、そういう信者こそ教会に来るべきだし、神の導きをその身に享受するべきだ。私は来る者を拒む権利はそもそもない、それが人間であるならば。そして私は彼女を人間と同等と判断した。だからいつもと同じようにすればいい。

 神父は考えては結論を出し、しかしまた考えて同じ結論に至りを寝るまで繰り返した。そして次の朝に目覚めてもまた同じことを続けた。


 夕方になり、すいてきたところを見計らってだろう、メビウスがやって来た。恐らく、他の村人と極力接触しないつもりなのだ。昨日越して来たというのに、今日一日信者と会話をしていても新参者の話は一切出なかった。

「神父様、こんばんは。お布施を持って参りました」

「それはありがとうございます」

 メビウスはタッパーを取り出す。

「角煮です。私の角煮を是非ご賞味下さい」

 角煮は好物だ。どうして知っているのだろう。しかし、豚が角煮を調理するというのは、腹に髪の毛が入ったような気持ちになる。それでも誠意を持って作ってくれたものだ、気持ちよく受け取らなくてはならない。

「では頂戴いたします」

 メビウスはブフ、と鼻を鳴らして一礼すると、最前列の端っこに座って祈りを捧げて帰って行った。

 夜になれば緊急でもない限りは教会に用がある者は居ないので神父は一人きりになる。神と共にあればそれで十分とは思えず、寂しさがあり、ポトスを育てている。食卓に乗せ、声をかけながら食事を摂るのが習慣になっている。

「ポトス、今日は昨日話したメビウスが、角煮を作ってくれたよ」

 電子レンジで温めながら、ご飯をよそう。角煮には白米が一番だ。一瞬、毒でも入っていたらどうしようと考えたが、そのようなことを私にする理由は全く見当たらなかったので、食べてみて判断することにした。

 ほかほかの角煮はいかにも美味そうで、和がらしをちょいと皿の端に付けて、いただきます。

「美味い」

 ポトスに言ったのか、遠いメビウスに言ったのか、神父は美味への感謝を声にする。箸が進むすすむ。あっと言う間に食べ切る。

「ごちそうさま。明日はメビウスにお礼を言わなくてはならないな」

 神父がメビウスに対して感じていた陰性の感情が、それは昨晩決して拭えなかったものが、肉を飲み込むのと一緒に体の下の方へ流されて行った。あまり気にしなくてもいいのかも知れない。満たされて、不安が払拭されて、神父は昨日の分まで安寧な眠りに着いた。


 また次の日の夕方、予想通りにメビウスがやって来た。

「やあ、メビウスさん。角煮はとても美味しかったです。ありがとうございました」

「いえいえ、それよりも神父様、私をこの教会で雇ってはくれませんか」

 安い買収だったのか。ちょっと安すぎる。それ以上に喋る豚など雇ったら、他の信者が恐れて近寄らなくなってしまう。

「今は人を募集はしていませんよ」

「そこを何とか、お願いします」

 メビウスの下げた頭から、むわ、と異臭がする。確かに行き場のない人を受け入れる教会も世の中にはある。歴史的にはそう言うことが布教に一役買っていたのは分かっているが現代ではあまり聞かない。と言うよりも私が嫌だ。この豚と長時間毎日過ごすと言う人生の選択はあり得ない。それはまるで彼女が私の妻になるような生活だ。

「ダメです」

 メビウスは少し考えて、何かを言いかけて、やめて、分かりました、出直します、と言って帰って行った。


 メビウスは毎日教会にやって来る。そして毎日「雇ってくれ」と言う。しかし神父は断り続ける。

「どうしてダメなんですか! 私は信心深く、毎日お祈りもする。雇って下さい」

 メビウスの雇用を求める方略は単調で、何の搦め手もなく、雇ってくれと言うばかり。

 神父は次第に疲弊する。今日メビウスが帰ってもまた明日には同じことが反復される。メビウス自体の気配と匂いと声のせいか、同じことをされているのに全く慣れると言うことがない。それどころか、同じ場所を何回も突かれるために徐々にそこの部分が脆くなって来ているように感じる。それは雇うか否かと言う部位ではなく、メビウスの存在によって神父自身が圧迫を感じ少しずつ正常な判断が出来なっていくような、暴力によって人がぺしゃんこになるのと少し違う、徒労を繰り返し与えることによって人が歪んでゆく、場所。

 それに対する防衛なのか、それとも単に苛立って来ただけなのか分けることは出来ないが少なくとも、神父はメビウスにぞんざいになって来た。

「ダメなものはダメです。はい、話はおしまい、お引き取り下さい」

「雇って下さい」

「お引き取り下さい」

 下を向いて帰るメビウス。いつの間にか、彼女が帰ることが今日一日を生き抜いた証のようになっている。

 十日目、また同じ時間にメビウスがやって来る。軽く祈ってから神父のところに来る。

「神父様、今日こそは」

「ダメです、お帰り下さい」

「そこを何とか」

「ダメです」

「もう十日目です」

「だから何なんですか」

「そろそろいいでしょう?」

「ダメです」

 いつもより喰いさがる。メビウスの哀れを誘う目に、ぼぼっ、と火が灯るのが分かった。神父はここで切らないと面倒くさいことになると確信して畳み掛ける。

「ダメなものはダメです。何日来たってダメです。いい加減にして下さい。お引き取り下さい!」

 ぐ、と俯くメビウス。荒い鼻息。

 これで終わりになればいい、もううんざりだ。神父はその気持ちを言葉に目一杯乗せる。

「お引き取り、下さい」

「食べたくせに」

 蚊の鳴くような声、しかし、聞き取れた。それでも、聞き返す。

「え?」

「食べただろう、私の角煮」

 だからそんな安い買収で人を雇う訳ないだろう。と言うよりお布施だし。

「食べたから、何なんです」

「もう、血となり肉となっている」

「そうでしょう」

 メビウスは突然ボロを捨てると、上着をまくる。左脇腹に傷。

 理解が吐き気に瞬時に変わる。しかし、もう吸収してしまっている。この手にも脳にも行き渡っている。

「神父様が食べたのはそんな軽いものではない」

「だから、雇えと?」

「あなただけが禁忌を犯した、そうだろう。その秘密と引き換えだ」

「豚を食べるのは禁忌ではありません」

「ただの豚ならな。あなたは私をそうではないと決めたからこそここへの立ち入りを許可した筈だ。他の全ては騙せても、私と神は欺けない」

 だからと言ってこの豚の言う通りに雇ったら、ずっと秘密を握られたままで、それは私が傀儡になってゆくことだ。かと言って野に放つのも危険だ。どこで吹聴するか分かったものじゃない。それを聞いた人がその話を信じるか否かと言うことの不確かさと同じだけ、自分の身と立場が不確かになる。完封することが出来ないなら完全に漏れると考えなくてはならない。しかし、神は欺けなくても、豚は黙らせることが出来る。しょうがない。

「分かりました。では、奥の部屋で話を詰めましょう。忘れ物のないように」


 日曜礼拝、今日は振る舞いがあると聞いて多くの村人がやって来ている。村の子供が神父のところへやって来た。

「神父様、とっても美味しいです」

「それは良かったです」

「これは、どうしたのですか?」

「ある信者の方からのお布施ですよ」

「珍しいですね、こんなにたくさんの角煮なんて」



(了)

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