7

 疲労からか、恐怖からか、夢の中を走っている気分になる。

 非常灯だけに照らされた無機質な廊下を、右腕に埋め込んだ地図を頼りに進んで行く。

 ――あなたは誰?

 そんな声が聞こえたが、幻聴かと思って無視しそうになった。

「イインチョウ、今誰かの声が聞こえた?」

 テンが問いかけてみたが、ミナからの返事はない。

 テンは立ち止まり、地図から顔を上げた。

「イインチョウ?聞いてる?」

 ――テンは振り返り、

「え………」

 自分の後方に、ミナの姿などない事を知った。

 それはそうだ。

 人工の左腕に、人を引っ張っている感触などある筈も無かったのだ。

「あ……あ……」

 テンが自身の左腕を確認すると、肘から先が破壊されたジャンクがあるのみだった。

 恐らく、左腕は爆発で吹き飛ばされていたのだろう。

「俺は……なんで……」

 独り廊下に佇むテンの胸に焦りが込み上げる。同時に虚無感が沸き起こり、ミナを助けに戻ろうと言う気持ちにならなかった。

「誰かいるの?」

 横合いから声を掛けられ、テンは銃を構える。

「女の子?」

 銃口の先に居たのは、白衣を着た少女だった。彼女は柱の影から顔を出し、怯えた瞳でテンを見詰めていた。

「君は、ここの研究員?」

「はい、そうです」

「良かった。他の人達は?」

「死にました。人間もテトラドラクマも」

「……そうか」

 テンは銃をしまい、壁に凭れて座った。

 がっくりと、全身の力が抜けた気がした。

「大丈夫ですか?とても疲れています」

「そうかな?そうだろうね……」

 テンは自身の左腕を見た。

 壊れる前にとっくに失っている、自分自身の人の形を。

「この腕は俺の唯一の生身だったんだ。でも、少し前の事故で失ってから、機械の腕になった。感覚なんてないのに、たまに痛んだり、何かを掴む感覚があったりするんだ」

「幻痛ですね」

「簡単な言葉にしないでくれよ!」

 テンの語気が僅かに荒くなる。

 見ず知らずの女の子に怒鳴る自分に気付き、テンは乾いた笑いを零した。

「いつも、自分に夢を見るなって思うんだ。俺の左腕は無くなって、痛みなんて失ったのに……それなのに、さっき、仲間の腕を掴んで走ってる感覚があった。

 多分俺はその感覚が懐かしくて、馬鹿みたいに必死に走ったんだ」

「仲間は置いてきたんですか?」

「ああ。狂人集団とテトラドラクマが争う場所に。助けに行かないと死んでしまうかもしれない。でも、どんな顔をして会えばいいのか分からないんだ」

「ジューロー……噛みました」

 少女は咳払いをし、テンに寄って来る。

「重労働の対価を手に入れ損ねると、心は折れます。一度呼吸を整えてみましょう」

「対価の獲得失敗か。俺が苦しいのは、そこじゃないんだな。自分自身の不甲斐なさだよ」

「不甲斐ないとは?」

「俺さ、生まれ付き手足が無くてさ。左腕だけがちゃんと生えてたんだよ。左腕も不格好だったけどな。それで早い内から義足義手でさ、左腕だけが自分の相棒みたいな気分だった」

「その左腕を失ったことが悲しい?」

「それは機械の腕に付け替えた時に吹っ切った。いや、吹っ切ったと思ってた。それなのに、大事な所でこの様だ。感覚の無い筈の左腕に、仲間の重さを感じた事が嬉しくて、その仲間を危機に晒した。情けなくてさ」

 テンは肘から先の失われた左腕を眺め、無い掌を握ったり開いたりして見た。

「もう、逃げよう。今の俺は戦えない」

「お仲間は良いのですか?」

「見捨てる訳じゃない。俺より有能な奴だから、生きてれば自己判断で身を隠す筈だ。俺の役目は早く脱出して、増援を呼んでくることだよ。君にも一緒に来てもらう」

 テンは立ち上がり、屋上へ向かった。

 少女も文句も言わずに着いてきた。

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