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問題発生から、既に七時間半が経過。紫雨研究所は閉鎖状態に移行している。
内外からの通信は全て遮断され、通路にも非常用シャッターが下りている。廊下の電灯も殆ど落ちており、非常灯の緑色だけが不気味に闇を押し退けていた。
「お嬢ちゃん、まだ歩けるかい?」
「はい。大丈夫です」
銃で武装した男と白衣を着た少女が、廊下で身を潜めていた。
男はテン達の先遣隊として派遣された10班の隊員だ。8人居た先遣隊は既にバラバラ。男は把握していなかったが、殆ど全滅状態である。
「くそ!通信は使えない。通路は殆ど通れない。通常の対応じゃない。まるで隔離施設じゃないか!」
研究所で研究資材が暴走し、研究員が殺された。
そんな通報を受けての出動だった。穏やかではない内容だったが、よくある話だ。
人間なんてひ弱なもので、人間以上の腕力を持った研究用の資材が、暴走して殺されるなんて話には暇がない。そんな時は、文明の利器を整えて、適切に対処すればいいだけの話だ。
しかし、奴らには知性にも似た凶暴性があったらしい。
武器を持ってしまった人間は、生物を簡単に殺せる一方で、他人に簡単に殺されてしまう。人間の生存とは、ただの危うい殺し合いでしかないのだ。
文明のない生物が、人間に勝つにはどうすればいいのか?
ただ、文明を取り上げればいいのだ。
ライオンが核ミサイルのスイッチを持っていれば、きっと人間は滅ぶだろう。それどころか、ゴキブリが拳銃を扱えるだけで、人間の数は激減してしまうだろう。
「銃を奪って使用する研究資材ってなんだよ……知能を与えちゃいけないんだよ……」
この研究施設の閉鎖状態は明らかにおかしい。
通常、研究所の閉鎖とは、研究員が逃げるための時間稼ぎとして行われる。しかし、この研究所は、研究員を含めて一切を外に出さない為としか思えない対処を施している。
「そうさ、きっと誰も逃げられないんだ。あの化け物から」
男は役に立たなくなった通信機を壁に投げつける。通信機から電池が外れ、廊下の向こうに転がっていった。
「ここはドラクマの研究施設じゃないのか?あんな化け物、見た事ないぞ!」
男が吐き捨てる様に呟く。一緒に居た研究員の少女が、感情の読み難い表情で尋ねた。
「ドラクマって何ですか?」
「は?お前、研究員だろ?ドラクマを知らないって事は無いだろ?」
「知ってますが、一般の人との認識が同じかは分かりませんので」
「理系特有の、その定義とか前提条件、みたいな喋り方好きじゃないんだっての。だから、俺は研究班から、警備の方に移ったんだ」
男の顔を見て、少女は首を傾げる。
「なんで好きじゃないと言うんですか?嫌いじゃないでしょう?」
「あのな……いや、止めておく。今は無駄なこと話してる時間なんて無いしな」
心を見透かしたような目をする少女から、男は顔を反らした。
しかし、ある事を思い出した様に、少女を見た。
「いや、ちょっと待て!お前、ここの研究員だろ?あの化け物の研究してたんだろ?なら、あの化け物を殺す方法を知ってるんじゃないのか!?」
男は必死の形相で、少女の肩に掴み掛った。
「どうなんだ!あの化け物の苦手な毒とか、弱点になる習性とかあるだろ!」
「それを知ってどうするんですか?」
「殺すんだよ、あいつらを!」
「殺さないと、いけないんですか?」
「殺さないとダメに決まってるじゃないか!」
「あなた自身が、殺さないで済ませられば、それが良いと思っているのにですか?」
「こいつは……」
男は頭が沸騰しそうになったが、同時に栓を抜かれた様に怒りが引いていった。適当な事を言う少女の肩を離して、自身の手を見詰める。
本当に、適当な事を言うと思った。
あんな化け物は、殺さないといけないに決まっている。
「自分達の研究が大事なのは分かるけど、研究成果と自分の命、どちらが大事かなんて、言うまでも無いだろ?さあ、殺す方法を教えてくれ」
「彼らは突然の事に驚いて、暴れているだけです。平静を取り戻せば、問題ありません」
優しく言ったのに、少女は頑なだ。男は妙に苛立って、キツイ口調になってしまう。
「アレに知性なんてある訳がない!手当たり次第に、俺の仲間を殺しやがった!言葉も喋れず、暴れるだけだ!その癖、力は強く、頑丈で、再生能力も高いときた!お前らは、一体何の研究をしてたんだよ!どれだけ醜悪な恐怖を作れば、人間が震えるか見たかったのか!」
いや、キツイ口調と言うよりは、恐怖の吐露か。男の泣き言はみっともなく少女を詰る。
「彼は子供ですから、大目に見て下さい」
「ああ、もう!話にならない!」
男は少女を乱暴に突き飛ばす。しかし、力が入らないのか、男の方がよろよろと後退し、壁に背を凭れさせて座り込む。
「彼らの姿は醜悪ですか?見た人は震えあがりますか?」
「……今時の女の子は、あれをキモカワイイとかいうのか?」
男は一瞬、化け物が女子高生に受け入れられている様を想像したが、すぐに頭を掻きむしった。
「……いや、ない!あれは本能が拒絶する異形だ」
「彼らが外に出たら、どうなりますか?」
「大パニックになるに決まってるだろ!あれは人のエゴの行き付く先だ。『人間はこれ程までに恐ろしい化け物を生み出すのか!』ってマスコミに叩かれて、色んな施設の研究がストップするかもしれねー!」
「それは困りますか?」
「困るよ!……そうだ、困るんだよ」
少女に問い詰められて、男は力なく項垂れた。
この訳の分からない感情の名前は何だろう?なんて悩む知性が無ければ良かったと、男の腕は震えていた。
「研究とは、道徳の逆の言葉だ。関心を歪曲し、人間性を剥奪し、自然の摂理を解体する。まるで幼い子共の様に、繰り返し疑問に問いを投げ掛けて。まるで知性のない機械の様に、ひたすらに対象の行動を記録し続ける。
形造り、壊し、並替え、壊し、構築し、壊し、解体し、壊す。
繰り返し繰り返す繰り返しの繰り返し。
その執念と妄執に、悪意など発生することすらしない」
男の目は、段々と座っていく。
「非人道的な行いの上に、豊かな暮らしがあるのは分かってる。俺達の知的欲求は、誰が苦しもうが知ったこっちゃないってのもさ。
あの化け物も不必要じゃないこと位、俺だって分かるし、あれを禁止にするのなら、他の殆どの研究を禁止しないといけないのも理解しているさ。
確かに、アレによって、俺の仲間の生は剥奪された。けど、あの研究によって、未来を含めた、数えきれない数の人間の暮らしが豊かになるんだろうなってさ……。
でも、あれは気持ち悪い。人間の本能を否定する、猟奇的な異形だ。俺はさ、なんとしても脱出して、あの化け物の研究を止めさせる。お嬢ちゃんには悪いけどな」
男は銃の動作を確認すると、柱の陰から立ち上がった。
「脱出には賛成です。方法はあるんですか?」
「俺達が侵入した窓はシャッターで閉ざされたが、追加の部隊が来る筈だ。そいつらと合流できれば、脱出の方法もあるだろうさ」
「合流って、どこに向かうんですか?」
「マニュアル通りなら、後続の部隊は研究員の避難シェルターに向かう筈だ。俺達もそこへ向かう」
「合流できないと、どうなるんですか?」
「この施設の研究員が全て死んでいて、得体の知れない化け物だけが生存していると知られたら、施設ごと破壊されかねない。爆撃機による空爆か、施設を硬結ジェルで押し固める事に成ると思う。それに巻き込まれて死ぬのはごめんだろ?」
「そうですね」
少女は頷いて立ち上がる。
『この施設をどう脱出するか?』
長年抱えていた課題を解決すべく、少女は思考を巡らせた。
「あ……」
――けれど、少女は何かに気付き、蒼白な顔で天井を見上げた。
「どうした?」
天井に光るのは四つの瞳。凶暴を現すかのような巨躯が張り付いている。
あれが何をするつもりなのかなど、想像に難くない。
「止めて、殺してはいけない!」
少女の叫びも虚しく、響き渡るは雷轟のような雄叫び。
落下してきた巨大な生物に踏み潰され、男は生涯を終えたのだった。
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