第一章『暗い森の中へ』1
ズキリと左腕が痛んだ。
そんな筈はないのに。
空調の効き過ぎた医務室を出て、ブリーフィングルームに向かう。
そろそろ昼勤務の奴らの始業開始時間なのだろう。出勤してきた研究員達が、忙しなく廊下を行きかっている。翻される白衣から漂う薬品臭を嗅ぎながら、自身を包む警備服を、時計を確認するフリをして隠した。
ついでに時刻を確認すると、午前九時過ぎを示している。今日の集合時間が午前九時なので、既に遅刻が確定しているようだ。
「七時から並んで、ここまで掛かる医療班のせいだろ。俺は悪くない」
本来三十分で終わるメンテナンスで、待ち時間含めて二時間も浪費させられた。遅延証明は有効な筈だ。が、ウチの班長は、『相手の遅れも見越して行動しないお前が悪い』なんて言って、人事考課を下げるだろう。
「そんなの通り魔に殺された人間に『危険を見越して行動しないお前が悪い』なんて言ってるのと同じじゃないか」
溜息を吐きながら袖を捲り、先程痛みを発した左腕を確認する。人工皮膚の下には、薄っすらと青白い光が見える。廊下が静かならモーターの駆動音も聞こえるだろう。
言うまでも無く、義手である。ついでにいうと、左腕だけではなく、俺の両手両足は人工物である。ドリルで穴を開けられようと、この腕が悲鳴を上げる事は二度とない。
だと言うのに、事ある毎に左腕は痛みを訴えかけてくるのだ。
「幻痛を覚えるなんて、いつまでも未練がましいと思うよ」
自己嫌悪を抑えながら袖を戻すと、横合いから声を掛けられた。
「やあ、テン。遅い集合だね」
「おはよう、メガネ。お前も遅刻か?」
「メガネって呼ぶなよ。班長に資料用意しろって、言われたんだよ」
声を掛けてきたのは、代々木浩太。
通称メガネ。俺……紫雨天と同じく、警備隊の第四班に所属する同僚だ。
「テンは普通に遅刻だろ?怒られるぞ」
「医務室に寄ってたんだよ。滅茶苦茶混んでたから、不可抗力だって」
「それは災難だね。班長が理解してくれればいいな」
「笑うなよ。理解してくれる訳ないじゃないか。メガネも遅刻で怒られるだろうけどな」
「班長が取ってこいって言ったんだよ、この資料」
「でも、人事考課は下がる」
「だよね。ボーナスに響くと嫌だな。でも、テンよりはマシでしょ。仕事だったんだし」
「同じであって欲しいな。世は道連れっていうじゃないか」
「雑過ぎでしょ。というか、こんな時間から、医務室が混んでたってどういう事なの?」
「昨日の夜は、色んな施設で事故が起きて、警備班が出ずっぱりだったらしい。で、怪我した奴が多いと」
「その問題の内の一つが解決してなくて、僕達が呼ばれる訳だね」
「そうそう。先遣隊には、ちゃんと解決しといて欲しかったよな」
「でも、この事件って、元々テンに来て欲しいって、施設側から通知が来たんだろ?」
「通信担当者はそう言ってるけど、ログに残ってないんだろ?寝ぼけてたんじゃね?」
「『紫雨研究所です』を、『紫雨天に来て欲しいです』みたいに聞き間違えたって事?有り得ないでしょ」
「有り得なくないよな。有り得なくないよな?」
「僕はテン一人で行って欲しいな。今日は、研究の手伝いのバイトが入ってるんだよ」
「研究班に未練感じてないで、警備班の職務を全うしようぜ」
「それはそうだけどね……」
メガネは曇った表情でブツブツ言っている。その隙に俺はメガネの持つ資料を拝借した。
「ちょっと、資料貸してくれ。運ぶ手伝いするから」
「あ、こらずるいぞ!」
ただの遅刻だと見栄えが悪いので、『メガネの手伝いをしてて遅くなりました』みたいな顔をして、小走りでブリーフィングルームに向かった。
「こら!お前達、今何時だと思っている!」
「「すいません!」」
ブリーフィングルームの自動ドアが開いた瞬間に、班長の怒鳴り声が飛んできた。俺達は小言を始める隙を与えない様に、大急ぎで資料を配って自分達の席に着いた。
ブリーフィングルームには既に三人の男女が待機していた。一人は齢四十過ぎの男性で、我らが班長、頭の固い偏屈おやじ。有能ではあるが、研究所内に敵も多いと聞く。
もう一人は新内丹鶴。通称キンニク。短髪でガタイの良い男で、直情的なきらいがある。人間原理主義というか、純粋な肉体の崇拝者。何故この科学技術研究所に就職希望したのかよく分からない奴である。
最後は黒髪で長身の美人。愛沢美奈。通称イインチョウ。別に委員長ではないが、雰囲気が風紀委員長なので、あだ名がイインチョウなのである。研究も身体能力も優秀。性格は少し真面目すぎて、ガサツな俺を好いてはいない感じがする。
「おい、メカ。遅刻じゃねーか。起動スイッチを押すのを忘れて寝坊か?」
「頭の悪そうな煽りは止めてくれよ。俺まで馬鹿に見えるだろ」
「あんだと!」
席に着いた途端、キンニクから意味不明な言語を掛けられる。
何を言いたいのか分からなかったが、ニヤニヤ顔だったので嫌がらせのつもりなのだと思われる。
「お前ら、静かにできんのか!」
「「すいません!」」
我ながら馬鹿みたいな返事して、班長の方を向く。
班長はスクリーンに映像を映し、今回のミッションの説明を始める。
「先日の深夜、紫雨研究所で実験体が逃げ出し、施設を占拠したらしい。この研究所は、世間でも広く使われているドラクマの発展形、通称『テトラドラクマ』の研究をしている」
「おいおい。代価品の反逆って訳か?糞下らねー研究してる奴の自業自得じゃねーか」
キンニクが厭味ったらしい目をこちらに向ける。
俺の父親の研究施設だから、俺に責任が有るとでも言いたいらしい。短絡的な奴だ。
「その研究が、俺に関係ない事すら分からない小学生かよ、キンニクは」
「あ?お前の親父さんの研究所だろ?」
「俺と親父の仕事と、関係あるのかよ?」
「あるだろ。親の仕事によって、育てられたんだから」
「その理屈なら、俺もお前もアフリカに発祥した誰かさんの仕事で生きているんじゃないか。特に俺と親が濃く関係してる訳じゃない」
「そういうことじゃねーんんだよ!」
「じゃあ、どういう事か、足りない頭で説明してみせろよ」
「理解できねー方が、頭がわりーんだよ」
「お前ら、静かにしろ!」
「「すいません!」」
また怒られた。また馬鹿みたいに返事をしてしまう。
「話を続ける。事故が起こった夜、泊まり込みをしていた所員は127名。午前1時21分に緊急連絡が入り、即座に十班が救助に向かった。
しかし、現時刻を以てしても所員とも十班とも連絡が取れない。我々の目的は所内の状況の確認。可能ならば所員の救出である」
「分かりました」
四人とも、了承の返事をする。
しかし、キンニク男には、自身の返事に了承の意味がある事さえ分からないらしい。
「あーあ、自分達の研究で危機に陥った奴を、危険を犯して助けなきゃならねーのかよ。自業自得じゃねーか」
「それが俺達の仕事だろ?脳味噌キンキク」
「んだと、メカ野郎!変な研究をしなきゃ、俺達が命を賭けてまで、助けに行かなくていいんだろーがよ」
「研究員は、命の危険を犯してまで、人類全体子々孫々の暮らしを便利にする研究を行ってるんだよ。一人の命に対して一人しか救えない俺達が、文句を言うべきじゃない」
「下らねー!俺達が、いつ『怪しげな研究をして暮らしを便利にして』って頼んだよ?」
「生まれた時にだよ」
「は?」
「人間は、人間の進歩のために生きないといけない。でも、お前は生まれた時から頭が悪くて、そんな進歩には携われ無かった。だから、他の人に『頭の悪い自分の代わりに、凄い究をして下さい』ってな」
「舐めてるのか、お前は!」
キンニクが席を立ち、詰め寄ろうとする。
こちらも立ち上がって、キンニクを睨み付けた。
「舐めてるのは、二人共だろ!話は終わってないんだぞ!」
「「すいません!」」
またまた怒られてしまう。またまた頭の悪い返事をしてしまう。
班長は、作戦の最終工程を俺達の電子ペーパーに表示して説明する。
「我々は紫雨研究所へ侵入する。これが紫雨研究所の見取り図だ。緊急信号によって、出入り口は閉鎖され、内部の非常用シャッターも閉まっている筈だ。通路は思うように使えないと見て良い。
理由は不明だが、通信機器も使えない。事前に、地図は緊急集合場所は頭に入れておけ。
侵入経路だが、下手に壁を抉じ開けて、実験体を外に逃がす訳には行かない。ヘリで研究所に近付いて、屋上の床を開けて中に入る。その後、赤で示した経路を通って、研究員の避難シェルターに向かう。
先遣隊の戻らぬ異常事態だ。迅速に対処するぞ。15分後に出発する。各自、準備を整えてヘリの発着場に集合。装備と地図の確認怠らない様に。以上!」
「はい!」
俺達の返事を確認すると、班長は部屋から出て行った。
「おい、メガネ行こうぜ。メカと一緒に居ると油臭くなっちまうぞ」
「キ、キンニク…そういう事を言うの止めようよ」
「良いんだって。事実なんだし」
キンニクは薄ら笑いを浮かべながら部屋を出て行き、メガネも後に着いて行った。
本当、全ての嫌がらせが小学生レベルで、ムカつく奴だ。
「アナタ達って、相変わらず子供ね」
キンニクに差別されてイラついているのに、何故かイインチョウにまで煽られた。
「なんで一纏めにされるんだ。突っかかられてるのは、こっちじゃないか」
「それが分からない内は、子供よ」
「ずりー言い方して。自分は大人のつもりか?」
「貴方達よりはね」
「なるほど、おばさ……」
「それ以上言うと、鼻毛ぶち抜くわよ」
「地味に嫌だから止めて!?」
まあ、大事な作戦前の時間を無駄話で使い潰す、俺達二人とも、ちゃんとした大人ではない気もしたが。
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