海が太陽のきらり
満月の夜。わたしはひとり崖の上に立っていました。足下を覗き込むと懐かしいへそ。崖下から吹き上げる風がワンピースを揺らし、麦わら帽子を飛ばしましたが気にしません。
すっと両手を広げて胸を張り、お月様を見上げます。風はワンピースの裾をぱたぱたと揺らしました。風。海に還ったら、風を感じることも無くなるでしょう。わたしは、もう少しだけ風を浴びている事にしました。
そういえば昔、同じことをしていたのを思い出しました。あのときは、熊楠が見送りに来てくれたっけ。熊楠は言っていました。やりたいことがありすぎて一緒にはいけないけれど、楽しかったよ。機会があれば、研究させてくれ、そんなことを思い出します。
ふふ、と思い出し笑いをするわたし。ふと、振り返ると、おとこの人が立っています。熊楠? いえ、違います。立っていたのは、海斗でした。
一緒に行くよ。そう言って海斗は手を差し出してきました。いいの? 手を取って尋ねると頷きます。おれ、やりたいことも見つからないし、わかんないし、街に帰ってもどうせひとりだし。だったらもう、そっちに行っていいかなって思ってさ。びっくりしました。海斗がそんなにせつなかったなんて。
それに……。そこで海斗は言葉を切ります。それに? わたしが先を促すと、真っ赤になって、それでもきっぱりと言いました。
陽子の事が好きだから。
うれしい。わたしも海斗が好き。うれしいけど、でも、戸惑いました。わたしたちの好きと、海斗たちの好きは違います。
わたしたちは好きになると、溶けあって混ざり合って、境目が曖昧なひとつになってゆきます。だけど、おとこの人やおんなの人の好きは違います。相手と自分をはっきりと分けて、お互いを認め、求め、与えます。決して混ざらないけど、寄り添うのです。
違うけど、いいの? そう言うと、海斗は、いいよ、と笑いました。海斗がいいなら、いいか。隣同士の穴から顔を出して、並んで空を眺めるのは楽しそうだし。
わたしは海斗と崖に立ちます。顔を見合わせて頷き、せーので一緒に飛び降りました。あっという間にわたしたちは海の中に潜り込みます。
ぶくぶくと気泡が上がる中、わたしは海斗の肩を叩いて上を指さしました。見上げた海斗が目を見張ります。真っ暗な海の海面には、乱反射する満月の明かり。ゆらゆら揺らめく海中からも、珊瑚や巻貝や幼生たちが、夜空の星々のようにちかちかと瞬く光が溢れています。きれい。
海斗はにっこりと微笑みました。よかった。でもその一瞬後、下を向いた海斗は、目をひん剥いてごぼごぼと空気を吐き出しました。何事かと思って下を見ると、みんなが大きく口を広げ、精いっぱいに穴から体をにょろりと伸ばし、
海斗は手足をばたつかせて上へ上へと逃げようとしました。なんだ。やっぱり怖いんだ。おとこの人って、そういうところがあるよね。でも、怖いんだったらこうするより他にありません。ざんねん。
上に行こうとする海斗の顔を無理やり掴み、驚いている海斗に微笑みかけると、キスをしました。ゆっくりと。深く。やがて海斗が大人しくなり、目を瞑ります。わたしは、えらからありったけの空気を集め、そのまま海斗へ送り込みました。
海斗の目が開きます。わたしは笑顔で、さよならと言って両手を振りました。そして、陸の上に帰ったら今日の事は忘れる
それに怖がったという事は、海斗には何かやりたいことが残っていたのでしょう。泳ぎの時と同じように、自分が気付いていないだけで。できることがたくさん目の前にあったのでしょう。だったら、わたしたちとは違います。
興奮していた仲間たちも落ち着いたところで、お互いにごめんなさいと謝って仲直りしました。だいじ。そしてわたしは、久しぶりに穴の中に戻って、おんなの人から海の生き物へと戻ったのです。
##
わたしはへそから空を見上げながら、海斗の事を思い出していました。あれからどれくらい経ったのでしょう。1年と少しくらいかしらん。そう考えていた矢先、崖からどぼんと何かが落ちてきました。仲間たちもわたしも、すっかり色めき立って待ち構えます。
落ちてきたのは、しかし、海斗でした。呪をかけたはずなのに、覚えていたのでしょうか。しっかりとウエットスーツに身を包み、ボンベを背負って。ひらひらとピンクの足ひれを揺らして、ゆっくり、ぐるりとへその辺りを泳いでいます。これではかみ砕けません。それにしても、随分と泳ぎが上手くなりました。すごい。
わたしは仲間と一緒に穴の中に隠れながら、海斗の泳ぎを見ていました。やがて海斗がごぼごぼと泡を立てながら何か言いました。
陽子。
海の中で聞こえにくいけど、確かに海斗はそう言いました。陽子。陽子。わたしの名前。わたしだけの特別な名前。
なあに。
わたしは穴の陰から答えます。海斗はこちらを見ずに、お日様の煌めきに向かって叫んでいます。やはり呪のせいか、曖昧みたいです。でも、それでいいのです。海も、海の太陽のきらりも、わたしの、わたしたちの一部なのですから。
陽子。なあに。陽子。なあに。
何回か返事をしましたが、やっぱり聞こえてはいないようです。海斗はやがて帰っていきました。元気そうで何よりです。またいつか、来てくれるかしらん。その時は、また、名前を呼んでくれたらうれしいな。
へその穴からにょろりと顔を出したわたしは、こぽり、ぷくりと気泡を上げながらそんな事を考えてしまうのです。きっと、ずっと。この先も。
海が太陽のきらり 吉岡梅 @uomasa
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