満月ともくりこくり

 海斗の名前は「うみ」という字と「ひしゃく」という字の組み合わせだそうです。海に柄杓ひしゃくなんて海坊主みたい。おかしい。


 海斗は「海」が名前についているのに泳げなくて、それをとても恥ずかしがっていました。


 だから、泳ぎ方を教えてあげることにしました。名前をつけてくれたことに比べれば、こんなことはお茶の子さいさいです。どうせ次の満月までは10日ほど。ひとりでうろうろしているよりも、誰かといる方が怪しまれません。わたしにとっても渡りに船です。


 海斗はわたしがワンピースのまま泳ぐのを不思議がって、そして、なんだか恥ずかしがるので、少し南の白浜海水浴場で水着を拝借してきました。イシダイみたいな白黒模様のビキニに、オコゼのヒレみたいなが付いています。かわいくない……。でも背に腹は代えられません。


 それからは、毎日一緒に泳ぎの練習をしました。最初はなかなかので泳ぐどころか海に入るのも躊躇ためらっていた海斗でしたが、すぐに上達しました。自分でも不思議がる程に。何日か経つと、沖の向こうに見える神島かみしままで泳いでいこうかなんて言い出すくらいでした。


 練習の後は、浜辺に座って、海斗が持ってきてくれる西瓜やおにぎりを食べました。陸の食べ物はおいしくて、かみ砕きやすいです。うれしい。そしてわたしたちは、いろいろな話をしました。


 海斗は高校2年生。夏の間、お母さんが神子浜みこのはまにある実家の旅館を手伝いに来るので、一緒に連れられてきたそうです。せっかく海の傍なのに、子供の頃にプールで溺れて以来、怖くて泳ぐのをずっと避けてたとか。だけど、いざ泳いでみたら泳げるし、楽しいし、すごく意外だと驚いていました。


 大人になると、自然にいろいろ変わるものね。きっと食べず嫌いだったんだよ。わたしもお魚全然食べられなかったけど、ある時から急に食べられるようになったもの。そう言うと、海斗はそういうものかなあ、と言って寝転びました。そういうものです。わたしも並んで寝転ぶと、海斗は笑って手を繋いできました。


 わたしにとっても海斗は意外でした。海の中では、おとこの人は乱暴で怖いから、注意なさいと教えられていました。すぐに捕まって、とれとれ市場にお刺身として並べられてしまうから、と。わたしも昔、何回か追いかけまわされたり叩かれたりしたことがあります。あまりに酷いので頭にきてかみ砕いたのですけど、おとこの人は筋張っていて、お魚以上に骨が硬くて、しかもおいしくありませんでした。せつない。


 だけど、海斗は優しくて、頼りなくて、なにより名前を付けてくれました。こんなにわたしと仲良くしてくれたおとこの人は、くまぐす以来です。


 俺、もうすぐ街に帰るんだ。ずっとこうしていられたらいいのにな。隣の海斗が呟きます。そうね。でもわたしも、次の満月には還らなくちゃ。あと3日くらい。そう言うと、海斗ががばっと起き上がりました。帰る? 陽子は地元の子じゃないの? 地元だよ。でもここじゃないの。わたしが還る場所はあそこ。沖の方を指さして、わたしは不思議な気分になっていました。


 ねえ海斗。街に帰りたくないなら、一緒に海に還る? おとこの人にこんな事を言うのは、100年前の熊楠くまぐす以来でした。わたしは自分でもちょっと驚いていました。だいたん。でも、そうしたかったのです。


 海斗が黙っているので、わたしは目を瞑って腕の変じを少し解きました。指の間には水かきが、肘の辺りには小さなひれが現れます。わたし、実はおんなの人じゃないの。そう言うと海斗は息をのんで、黙って頷きました。


 そしてわたしは話しました。もくりこくりは海の中の生き物というか、海の一部ということ。普段は海底の穴の中に住んでいること。元々はおとこの人やおんなの人だったのだけど、せつなすぎて満月の夜に蒙句麗もくりの崖から飛び降りると、海と溶け合ってもくりこくりになること。もくりこくりになると、それまでの思い出は全部なくなってしまうこと。


 海斗は黙って聞いてくれました。でも、やっぱり、少し怖がっているみたいです。そうね。そうだよね。熊楠はグイグイ来たけれど、これが普通なんだよね。わたしは立ち上がってぱんぱんと砂を払うと、海斗に言いました。やっぱり嘘。嘘だよ海斗。泳げるようになったし、わたしたち、そろそろお別れね。じゃあね、海斗。街に帰っても元気でね。すいか、おいしかったよ。


 そしてわたしは、両手をひらひらと振って浜辺を後にしたのです。

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