海が太陽のきらり
吉岡梅
今日からわたしはよーこです
わたしが海の中で一番好きなのはへそだと思います。それもすごく。
へそは広くてほの暗い海の中では珍しく、丸く、平らにくぼんでいます。そこだけは不思議とごつごつとした
せつなくなると、へそに行きます。何か落ちてこないかしらん。お日様の光を辿ってにょろりと見上げれば、海はゆらゆらと揺らめき、輝く海面の上には、にょっきりと突き出した
海の中はとても静かで、聞こえるのは、こぽり、ぷこりと上がる気泡の音だけ。たまにくらげやお魚が邪魔をしに来ますが、捕まえてかみ砕いてしまえば、せつなさも収まり一石二鳥です。お魚はくらげと違って骨があるので、気を付けてかみ砕くよう教わりました。
そして再び空を見上げ、しゅっと突き出した崖の影の先に、お日様が突き刺さるように重なり合うまで、のんびり、ゆっくり過ごすのです。
今日もそうして過ごしていると、急に体がふわりと持ち上げられました。慌てて体を
なんで。どうして。わたしは目をぱちくりさせます。もしやと思って顔を上げると、もくり
そしてそのまま30分ほどじっとして、おんなの人に変じるのを待ちました。陸に打ち上げられた以上、海に還るには次の満月を待つしかありません。それまで無事で過ごせるよう、おんなの人になりきって過ごすのです。
手足はすんなりと伸び、真っ黒な髪の毛も背中まで届き、誰にも見られずにおんなの人に変じられました。けれど、安心はできません。わたしは慎重に海沿いの家にお邪魔して、干してあるワンピースを拝借しました。ワンピースは少し大きかったけど真っ白です。かわいい。
ついでに縁側の麦わら帽子も拝借して、祠まで戻ることにしました。あの石があるべき場所に無かったら、みんなも陸に打ち上げられかねません。何としても、元に戻しておかなくてはいけないのです。
なれない陸になれない足。苦戦しながらなんとかかんとか辿り着き、松の影からこっそり伺うと、おとこの人はもういませんでした。けつまづき、手を突きながら駆け寄ってみると、石はすぐ傍にうっちゃられています。よくない。
でも、どこかに捨てられていなくてホッとしました。きっちり元の場所に戻して、一息つきます。これでもう安心です。一仕事終えて、ぺたりと座り込んだわたしは、すぐにでも泳ぎたくなりました。祠の前には、きらきらと光る海。居ても立っても居られずに、麦わら帽子を置いてざぶざぶと海に入って泳ぎ出しました。
普段と勝手は違いますが、いるかのように足をキックし、波を切り裂いて水を浴びます。きもちいい。少し沖まで行ったら、くるりとUターン。仰向けに寝転ぶと、見慣れたお日様よりも遥かに強い真夏の日差しが目を刺しました。眩しい。だけど、たのしい。
キャーなんて声を上げて体を反転させて、せっかくなので両手をばしゃばしゃさせて岸へと戻ります。と、その時、目が合ってしまいました。おとこの人と。
いつのまに戻ってきたのか、さっきのおとこの人が、網を手にして驚いた顔でこちらを見ています。どきりとしましたが、いまのわたしはおんなの人。なんでもないふりをして、陸に上がります。
裾をぎゅっと絞っていると、おとこの人が声をかけてきました。ねえ、この辺でにょろっとした生き物見なかったかな。さっき見つけて網を持ってきてるうちに見失ったんだけど。わたしが黙って首を振ると、おとこの人はそっかあと言って周りをうろうろしていましたが、すぐにまた、わたしの所へやってきました。
ねえ、君って地元の子。泳ぎ、すげーね。服のままであんなとか。なんて名前なの。目を合わせず下を向いて、すごく早口で聞いてきます。わたしが名前は無いのと答えると、首をかしげてやっと目を合わせてきました。
ひょっとしたらまずい事を言ってしまったのかもしれません。ないんだ。という言葉を聞いて、あわてて、もくり。もくりこくり。と言い直しました。わたしの名前ではないけれど、わたしたちの名前です。
おとこの人はますます首をかしげて、もくりこくり? と繰り返します。わたしが黙って頷くと、何それアカウント名? あ、ひょっとしたら、街の奴とはあまり仲良くするなとか言われて
名前を付ける。わたしはこくりと頷いたものの、どきどきしていました。名前。わたしの名前。わたしたちみんなの名前とはまた別に、わたしの、わたしだけの特別な名前。そんなの初めて。
じゃあ、ようこ。キラキラの太陽の下で会ったから陽子ね。
おとこの人は言いました。ようこ。ようこ。ようこ! すてき。わたしが嬉しさを押し隠していると、おとこの人はすっと手を差し出してきました。
おれは
海斗が陽子と呼んだから、今日からわたしは陽子です。海の中に住むもくりこくりの中でも特別に、名前が付いたわたしはよーこなのです。
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