第14話「無垢な笑顔」

 前のときもそうだった。

 この不気味な沈黙は、男のとある行動の前兆だ。


 十五秒ほどの静寂を経て、男はすっくと立ち上がった。どたどたと大股を広げて走り、児童室を出ていった。

 行き先はわかっている。トイレだ。過去二回も、彼はまったく同じようにして駆けだし、トイレへと向かっていた。ばたんと扉のしまる音がしたのが証拠だ。必要以上に大きなこの音にもきき覚えがある。


 いまがチャンスとばかりに、男が寝そべっていた場所まで行き、読んでいた本の表紙を確認する。

 僕は、すぐさまあきれた笑みをうかべた。なぜって、本まで前と一緒なのだ。『将来の夢探し! 職業ガイド二五〇』は、彼のお気に入りのガイドブックだった。乗り物関連の棚にある理由は謎である。


「いいかげん、夢決めようよ……」

 四ヶ所に貼られた付箋の位置が以前と微妙にずれていることに気づいて、思わず心の声が外にもれる。


「さてと、まずは」

 男が開いていたページには、中年のおばさんがベッドメイクやバスルームの掃除をする写真がのっていた。つまり、ホテルの清掃員だ。“シーツをびろーん”はこれに違いない。びろーんっていうか、パリっとしている感じに見えるのだけど。びろーんじゃ、まるで使用後みたいだ。


 二つ目。ページをかえると、若いお姉さんがコーヒーサーバーでカップにコーヒーをいれて、お客さんにだしていた。“コーヒーいかが”はこれだ。これは見たまんまだけれど、あの男がカフェの店員をしている姿を想像するとちょっとこわい。


「えっと、次は確か“アイ・ハヴァ・ポインター”だったよな」

 ポインターってなんだっけと考えながら、三つ目の付箋のページを開く。三十代ぐらいの男性が、銀の指示棒でホワイトボードをさしていた。そっかそっか、ポインターは指示棒のことだったのかと納得する。ホワイトボードには難しい英単語がたくさん並んでおり、ページの上部に塾講師と書いてあった。


「英語の先生だから、それにあわせて英語で言ってたのか、なるほど……」

 男に影響されたのか、だんだん独り言が多くなっている。意外と彼は英語が得意なんだろうか。そうは見えないけれど。


 四つ目。これが一番予想できない。なんだよ、“くしゃくしゃスマイル”って。

 ページを開くと、若い男性が車椅子を押している写真があった。車椅子には、年老いた女性が座っている。八十歳ぐらいだろうか。おばあさんは、しわだらけの顔にさらにしわを増やして笑っている。


「くしゃくしゃって、ひどいな」

 男の形容に、僕はナチュラルに笑ってしまった。確かにそうだな。おばあさんの顔は確かにくしゃくしゃだけど、とても清々しい笑顔だなと思った。老人ホームの介護職員か。あまり縁がなくて、どんな仕事なのか詳しくは知らない。でも、こんな無垢な笑顔を引きだせるなら、きっとすばらしい仕事に違いないだろうな。


「この中だったら、四つ目じゃないかなぁ。あとはちょっとイメージできないよなぁ……」

 のんきに男の仕事選び――といえるのかわからないけど――に付き合っていると、前のほうから人の気配を感じた。

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