第8話「ボールの行方」

 図書室に行くと、いつものように橘さんがカウンターで仕事をしていた。やっぱり、今日も僕以外に生徒はいない。


「あら、池下くん」

 パソコンに向かっていた橘さんが、顔を上げて微笑む。爽やかな淡水色うすみずいろのブラウスとその上に重ねたグレーのカーディガンが、おしゃれでよく似合っている。

「こんにちは。これ、返しにきました」

 先週借りた江國香織の『つめたいよるに』と、図書室の貸出カードを手渡した。

「あぁ、これね。どうだった?」

「読みやすくて面白かったです。切なくなる話もあればほっこりする話もあって、気分転換になりました」

「そう、よかったわね。今日はなにか借りてく? 言ってくれれば探すけど」

 貸出カードがいっぱいになったので、新しいものと一緒に僕に返却しながら尋ねる。


「うーん、今日はいいかな。受験終わったらまた来ます」

「あれ、試験まだだっけ? 近いの?」

「明日です」

「そっかそっかぁ、頑張ってね。池下くんなら大丈夫よ。しっかりやってるものね」

 ありきたりな励ましの言葉だけど、橘さんに言われるとそうかなと思ってしまう。

「あっ、はい。頑張ります」

 僕は、どこかあいまいな気持ちを抱えながら答えた。窓の外では、都筑たちが隣のクラスとさっそく試合をはじめている。対抗戦は昨日終わったばかりなのに、よくやるよなあホント。


「どうかした?」

 ほんの少しだけ首をかしげて、橘さんがいつもの可愛らしい笑顔をこちらに向ける。

「いや、みんな、いつも楽しそうだなって」

 僕が校庭のほうに顔を向けると、橘さんも外を見た。

「あぁ、都筑くんたちね。ホント好きよね、ドッジボール。あんまりいつも楽しそうだから、こっちまでまざりたくなっちゃう」

「ははは」

「あれだけ夢中になれるものがあるって、先生うらやましいなぁ。遊びでもなんでも、だれに言われるわけでもなく自分からやろうと思って熱中できるって、素敵なことね」

 校庭では、僕のクラスの女子が当てられたボールを小林が間一髪でキャッチするファインプレーが飛び出し、都筑たちが拍手している。


「夢中でいまを楽しんでるから、僕、あいつらが好きなのかもしれない」

 校庭を眺めたまま、ひとり言のようにつぶやいた。

「ん?」

「合格したら、みんなと別の街の学校に行くから」

 活発に飛びかうボールにつられて、話も少し飛んでいるような気がした。

 いや、飛んでいるというより、核心に迫るスピードが速まっているのかな。僕らの投げるボールが、元気よく直線や曲線を描くように。わき道にそれた世間話や愛想笑いをする余裕が、いまの僕にはなかった。


「そっかぁ……そうだよねぇ」

 橘さんの表情や口調からは、ちょっとどういう気持ちなのか読みとれなかったけど、僕への同情というのとは違うような気がした。

「夢中なのは、池下くんも同じでしょ? 毎日コツコツ勉強して読書して、楽しいって感じているから頑張れるんじゃないかな」

「そうなのかなぁ……よくわからないけど。あっ、でもこの前、苦手な図形の問題を完ぺきに解けて、ちょっと楽しかった」

「そうそう、そういう気持ちが大事。寒いなか元気に遊んでる都筑くんたちも、嫌いな子が多い勉強に、進んでまじめに取り組める池下くんも、みんな立派だし素敵だと思う」

 にこりと笑う橘さんに、僕は思わずドキっとする。こういうの、"嫣然えんぜんと微笑む"って言うんだっけ。


「先生にも、あと少しで会えなくなっちゃうな」

 僕が図書室に来て投げたボールの到達点は、たぶんこのひと言だった。

「それはしかたないわね。六年生をもう一度やるわけにはいかないでしょ」

「そうですね」

 橘さんの冗談に、思わず笑みがこぼれる。

「卒業しても、いつでも遊びにいらっしゃい」

「はい。ありがとうございます」


 都筑の投げたボールが、綺麗な直線を描いて相手チームのエースを打ち取った。

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