女子大生と暮らしてみた

@nana777

プロローグ


 四月である。

 芽吹きの季節である。

 そして別れの季節である。


 小路は喫茶店にいた。

 一人ではない。

 向かいに女性がいた。


 黒髪の女性であった。

 二十代後半。

 まだ若く、そして美しい女性だった。

 あの頃から容姿に関しては恵まれていたが、最近はいっそう女性としての色気が増したような気がする。


「……オジサン」


 その女性は、小路をそう呼ぶ。


 初めて出会ったとき。

 小路は29歳、その女性は16才だった。


 二人の年の差は、一回り以上もあった。

 最初はそのままの意味だったが、名前の都合もあって婚約してからもずっとその呼び方であった。


 ただし、結婚してからは下の『誠次さん』だった。

 それがあえて『オジサン』というのは、単純に彼女との心の距離が開いた証拠である。


 彼女がテーブルに差し出したのは、一枚の申請書類だった。


 テレビドラマでよく見るものだ。

 手切れのための通行手形。

 この現代社会において、これより効力を発揮するものもない。


「離婚しよう」


 小路は唇を嚙んだ。

 いま口を開けば、みっともない言い訳が漏れるとわかっていた。

 せめて、最後くらいは潔い男でありたかった。


 確かに彼女と結婚してからというもの、不幸が続いた。

 会社が倒産し、酒に逃げ、挙げ句に女性の友人と関係を持った。


 女性が家庭を守ろうとパートに行っている間。

 あろうことか、その不倫相手との間に子ができてしまった。


 むしろ、離婚の申し出は当然の帰結といえる。


 しかし、この期に及んで小路は惨めであった。

 潔くありたいと思う反面。

 しかし過去の幸福を諦められない自分を自覚する。


 もう一度、もう一度だけ。

 そう思って、女性の顔を見つめる。


 そして静かに絶望した。

 彼女の目には、自分が映っていないことをはっきりと自覚した。


 必死にすがった。

 惨めな嗚咽の中に、彼女の名を呼んだ。

 しかし、その腕は女性の力ですらあっさりと払われた。


 彼女は書類を鞄に入れると、逃げるように喫茶店を飛び出した。

 残されたのは惨めな40代の男と、周囲の奇異の視線だった。


 そういえば、この喫茶店。

 かつて女性の友人に、己の不甲斐なさを説かれた場所でもある。


 なに一つとして、変わっていない。

 下っ腹だけぽっこりと太っていた。

 そのことを、小路は深く悔やむばかりだった。



 ***



「はい、ここでクイズです!」


 いつの間にか製作されたプラカードだった。

 そこには『ドキドキ☆離婚裁判!』とカラフルに描かれている。

 カラフルな文字に反して、喫茶店で泣き喚く40代の男の絵はリアリティを追及していた。


「この場合、旦那と嫁さんのどちらに責任が問われるでしょうか!?」


 めっちゃテンションの高い女である。

 高校のころと変わらない茶髪ロングだ。

 学園の制服ではないが、やはり胸元は大きく開けた派手めな服装だった。


 マリコという名だった。

 姓や住まいなどは知らないが、よく見知った間柄だ。


 なお小路との間に、不倫と子どもの事実はない。


「……旦那じゃねえか?」


 小路の渾身の回答。

 しかし、マリコは嘲笑した。


「ブッブー!」


 両腕で勢いよく『×』である。


「オッサン、わかってねえなあ」

「じゃあ、なんだ? 法学部エリートさまのお答えを拝聴できるんだろうな?」


 フッと自信ありげに笑う。

 それはあまりに周到に張り巡らされた罠だった。


「嫁さんもパート先でイケメン社員と不倫してました! そのことに気づいたオッサンは、証拠を写真に収めて賠償金の一部を取り返します。ただし離婚時の接近禁止令を破った罰として死刑になりました、残念!!」

「知らねえよ!? ちゃんと出題の中にヒント混ぜろ!」


 そもそも刑罰が滅茶苦茶であった。

 ジョークなので、よい子は真に受けたらいけないのだ。


「そして友情と肉欲の狭間で精神を病んだ不倫相手は、お腹の子と北海道の海に身を投げ……」

「やめろやめろ。おまえのジョークは笑えねえんだよ」


 そもそも自分をモデルにした女性に対して、とんでもない扱いである。

 いや、そういうモラルがある人間は、実在の人物の名前を使用したりしないが。


「つーか、なにしに来たんだ? おれはこれから出かける予定あるんだが?」

「出かける予定って、栗栖の迎えでしょ?」

「まあ、そうだけど」

「だから、みんなで卒業パーティすんの」

「おい、待て。おれ聞いてねえぞ」

「大丈夫、大丈夫。会場はここだから」

「それが一番大事なところだろうが!!」


 このアパートは、小路の部屋である。

 少なくとも、いまはそうである。

 なぜ我が物顔で、小娘どもが出入りしてるのか。

 そのことばかりは納得できない。


「いいじゃーん。これからは栗栖の家でもあるんでしょー?」

「おれが家賃払ってんの!」


 女子大生と戯れている間に、約束の時間になってしまった。

 そのことに気づくと、慌ててスーツに袖を通す。


「オッサン♡」


 呼び止めるマリコである。

 その手が、おねだりのポーズを取った。


「ピ・ザ♡」


 デリバリーのチラシであった。

 圧倒的なチーズの暴力に、もうすぐ32歳の胃がたじろぐ。


「知るか。自分で頼め」

「栗栖とわたしはマブダチじゃん? つまり栗栖のものは、わたしのもの。栗栖のカレシは、……わたしの財布?」

「おい検事志望。そういうことナチュラルに言っちゃうのマジでどうにかしろ」


 マリコに人生を託す未来の子羊が不憫である。


「……ビールも買っとけよ」

「よっしゃ! オッサン、話がわかるぅー!」


 万札を渡して、小路はアパートを出た。

 時間がぎりぎりなのだ。

 このタイミングでの駆け引きを狙ったものだとしたら、さすがは百戦錬磨のマリコであった。

 

 いつか裁判になるときは助けてもらいたいものだ。

 これまでのちびちびした負債を合わせれば、その先行投資くらいにはなるのではと思った。

 変なところで思考がしょっぱい男である。


 電車に乗って、目的地へと向かった。

 わざわざこのために有休を取ったのだし、遅刻してはかなわない。


 到着したのは、都内のお嬢様学校である。

 校門の前には『○×期 卒業証書授与式』という看板が立っている。

 ちょうど卒業式が終わったらしく、学園前の通りには上品そうな人があふれていた。


 一人の女子生徒が、小路に気づいた。


「あ! あのヤクザだ」


 言葉がグサッと胸を刺した。

 たとえ見た目がどうであっても、心はカタギのもうすぐ32歳児なのである。


 初めて小路が学園祭に顔を出したのは、もう一年以上も前のことだ。

 OGマリコの付き添いで、その後も体育祭やらなんやらと顔を出していたのがいけなかった。

 いまでは親しみを込めて、正面からヤクザと呼ばれるようになってしまった。

 お嬢様学校とはいったい……、と思わずにはいられない春の空だ。


「……雅子はどこだ?」


 周囲の保護者の視線が痛かった。

 はやく撤退したい。


「オジサーン!」


 雅子の声がした。

 振り返ると、制服姿の少女が駆けてきた。

 黒髪の可愛らしい容姿だ。


 例のあの筒で、背後から叩かれた。


「痛えよ」

「痛いかなって思って叩いた!」


 いい笑顔だった。

 お嬢様学校とはいったい。


 栗栖雅子。

 今日から小路と暮らす少女だ。

 ボストンバッグを抱えている。

 このままアパートに来るつもりらしい。


「それ、離婚届じゃねえよな?」

「なに言ってんの?」


 真顔である。

 相手のジョークには厳しい五分前まで女子校生だ。


「さとちん先生に会ってく?」

「行かねえ」


 またお小言を言われかねない。

 親しい同級生とはいえ、これからの生活はあまりいい印象を持たれていない。


「他の二人は?」

「なんで?」

「マリコが卒業パーティするって張り切ってたぞ」


 雅子には三人の友人がいる。

 マリコとお団子ちゃんと金髪ちゃんだ。

 お団子ちゃんも今年が卒業のはずだから、てっきり一緒にいると思っていた。


「わたし聞いてないよ?」


 雅子はキョトンとしていた。


「……マジかよ」


 やられた。

 小路たちは地下鉄で帰路を急いだ。


「荷物、それだけか?」

「うん」

「少ねえなあ」

「そもそも荷物、ほとんどオジサンちにあるじゃん」


 それもそうだった。

 いまだに小路は、リビングに布団を敷いて寝ているのだ。


 そしてアパートに到着し……。


『諭吉さんゴチッス(^_^)v』


 そんな置き手紙である。

 ついでに離婚紙芝居も置いていた。


「あいつ、許さねえ! ……あ、携帯の電源切ってやがる!」

「マリコにお金渡したオジサンが悪いよ」

「おまえ、一万円! 一万円だぞ!?」

「いつか裁判沙汰になったときのための貯金だと思えばいいじゃん」


 サラリーマンにとって日々の一万円は貴重である。

 最近のJKたちはそのことをわかってくれない。


「つーか、早く入れよ」

「…………」


 なぜか玄関に突っ立ったままだ。

 ちょいちょいと手招きされる。


「どうした?」

「オジサン。わたしに言うことは?」


 にこーっと笑っている。

 その意味を察してはいるが、オジサンはためらった。


「や、やだよ」

「なんで?」

「面倒だし……」

「一言じゃん」

「いや、別にいいじゃねえか」

「気持ちの問題なの。ほら、早くー」


 両手を広げてスタンバイ。


「え、ええっと……」


 小路は言い淀んだ。

 なんか恥ずかしかったのだ。


「……お、おかえり」

「ただいま!!」


 勢いよく飛びつかれた。

 慌てて華奢な身体を抱きとめる。

 靴を脱げと言いたかったが、この際どうでもいいことのように思えた。


 春は芽吹きの季節。

 大学生編です。

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