第10話 やってみたらどうだ?


 玄関のドアを開けると、わんこが抱きついてきた。


「オージサン。おかえりー♡」

「……ただいま」


 えらくご機嫌な雅子であった。

 ほっぺたをすりすりされる。

 若さの暴力に屈しそうだ。


「ど、どうした?」

「んー? なんでもなーい♡」


 まったく離れようとしない。

 ご近所さんに見られたら恥ずかしいので、ドアを閉めさせてほしい。


「歩けないんだが」

「だっこして」


 マジかよ。

 冗談だろ?


 しかし、雅子は本気であった。

 仕方なく、身体を抱えた。


「よっ」

「きゃーっ♡」


 足をばたつかせるのはやめてほしい小路であった。

 やっとのことでリビングに到着する。


 ぎょっとした。


 テーブルから溢れんばかりの料理の数々であった。

 なぜかローストビーフがある。

 なぜかエビチリがある。

 なぜかシーザーサラダ山盛りとかあった。


 あとほら、クラッカーにクリームチーズを乗せたやつがある。

 色違いのピンが刺してあって、とてもインスタ映えちゃうやつであった。


「な、なんだこれ?」

「今日のご飯だよ」


 雅子は本気のようであった。


「今日、なんか記念日だっけ?」


 だとしたら失敗だ。

 小路はなにも用意していない。


「んーん? なにもないよー」


 言いながら、胸のあたりをイジイジしてくる。

 とても構ってちゃんモードであった。


「強いて言うなら、オジサンと過ごす一日一日が記念日かな」


 J-POPであった。

 とても若者にウケそうなフレーズだと思った。

 しかし、それが平成感だと気づかない小路である。


「さて、ご飯だご飯だー」


 バケットを切ってくる。

 スーパーのやつではなく、近所のパン屋さんのお高いやつである。


「はい、オジサン」

「お、おう」


 スパークリングワインであった。

 やはり記念日なのだろうか。

 もしかして、おれが思い出すのを待っているのだろうか。


「おいしい?」

「あ、ああ。うまい」


 嘘であった。

 小路は甘いワインが苦手なのである。


「はい。たくさん食べてね」

「ど、どうも」


 どれもおいしかった。

 さすが、小路の好きな味付けをわかっている。


「おいしい?」

「うまい」

「そっちもおいしい?」

「ああ。うまい」

「そっちは?」

「うまい」

「じゃあ、こっち」

「……うまい」


 感想のたびに、ニコニコして嬉しそうだ。


「…………」


 しかし、小路は気が気でないのである。

 薄氷を踏まされている気分であった。


 いったい、なにが。

 なにが気に食わなかったのか。


 記憶を遡っても、まったく身に覚えがないのだ。

 もはや食事の味など、よくわからなかった。


「ちゃんと掃除もしたんだよ?」

「そ、そうだな。部屋が綺麗になってる」

「買い物も済ませたし」

「ああ。助かるよ」

「オジサンの隠してたえっちなDVDも、ちゃんと整理しといたからね」


 それはやめてほしいのであった。

 いくつになっても、男には触れてほしくない領域があるのだ。


「わたし、いい奥さんになれるよね?」

「そ、そうだな。そう思うぞ」

「オジサン、わたしのこと大切にしてくれるよね?」

「も、もちろんだ」


 嬉しそうだった。

 まるで周囲に花が咲くようだ。


 それが小路には恐怖であった。

 これまで、雅子がそんなこと聞いてきたことはないのだ。


「ま、雅子……」

「なーに?」

「なんか、あった……のか?」

「…………」


 無言であった。

 その気の遠くなるような無音。

 一階のほうから、天使がプリキュアのテーマソングを熱唱するのが聞こえた。


 そして、雅子は。


 だーっと泣き出した。


「どうした!?」

「お、オジサン。聞いて、聞いてよう……」


 雅子が膝枕の体勢になった。

 その髪をわしゃわしゃすると、わんちゃんモードに変わる。


 今日の大学で起こったらしいこと。

 いきなり他人から、人生を全否定された話を聞かされた。


「オジサン。わたしは悔しいよ……!」

「そうだな」

「あんな小娘になにがわかるってんだー!」


 あんな小娘と同い年の発言であった。


 小路は気の毒に思った。

 雅子は早くも受けてしまったらしい。


 大学の洗礼である。

 まるで自分の見識が世界の真理であるかのような論理の押しつけ。

 なまじ「子どもではない」という自覚がある分、大学というところは厄介であった。


 不機嫌の理由がわかった小路は、安心して食事に戻った。

 エビチリがピリッとしてうまかった。


「オジサン愛してよー」

「はいはい、愛してる愛してる」

「オジサンが優しいよー死にたいよー」


 面倒くさいわんこであった。

 どうやら、かなりキているようである。


「でも、一理あるんじゃないか」

「……どういうこと?」

「おまえも、サークルとか経験したことないだろ」

「そりゃ、そうだけど……」

「何事も経験してみないとわからない。ちょっと、やってみたらどうだ?」


 メモ帳と化している勧誘ビラを手にした。

 こればかりは、小路が大学のころと変わらない文化のように思える。


「でも、オジサンの晩ご飯の準備しなきゃ……」

「ママかよ」


 ありがたいけど、そういう心配はしてほしくないのであった。


「……じゃあ、見学だけ行ってみる」

「それがいい」


 雅子がお風呂に行っている間。

 小路はベランダで、スマホでダイヤルした。


 3コール後に、相手は通話にでた。


「おいマリコ。雅子がサークル入るかもしれないから、おまえも一緒に……」

『わたし0時過ぎたら寝るっつってんだろ死ね』


 通話が切れた。

 しょんぼりする小路であった。

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