第9話 恋に脳みそを支配されすぎだな!


 大学の講義。

 それは新入生にとって、なかなか新鮮なものだ。


 雅子は学食で悩んでいた。

 今期の履修科目が決まらないのだ。


 これは必修。

 これは一年までの必修。

 これは二年までに取ればいいやつ。

 これは自由科目。

 これは三年になって履修可能な講義を取るために必要な科目。

 これは取らなくてもいいんだけど、三年になったとき教育実習とか行きたいときに取っておかなければならない科目。


 わけがわからん。

 講義内容だけでなく、教授によっても評価は違う。

 頼みの綱たるマリコは、珍しく講義に出席している。


 まるで家電の買い物みたいだ。

 炊飯器が『ふっくらつや炊き』と売り出されても、実際に食べてみるまで本当にふっくらで艶のある炊き心地なのかはわからない。

 こんな1行ずつのシラバスで、なにを決めろと言うのか。


 なるほど。

 その詳細な情報を、サークルなどで収集するのだろう。


 この一週間でアホのように押しつけられた大量の勧誘ビラ。

 一枚も読まずにメモ用紙となっている。


 でも、サークルはダメだ。

 雅子にはサークルに入れない理由があった。


 なぜなら、小路のご飯を準備できない!


 本気でそう思っているのである。

 32歳をどんだけ甘やかすんだママかよ。

 そう思わないでもないが、雅子にとっては最優先事項であった。


 惚れた相手が小路でなければ、いまごろ立派なヒモ製造機である。


「ま、明日の提出だし……」


 もうすぐマリコの講義も終わる。

 そこで意見を仰いでみよう。


 さて食事だ。

 学食で一番安いコロッケ定食。

 おいしいとは言いがたいが、経済的ではあるように思う。


「きみ、新入生? いま暇だったり……」

「すみません人妻なもので」


 左手の薬指攻撃!

 名も知らぬナンパ野郎は退散した!


「あ、しまった」


 ついでにシラバスについて聞けばよかった。


 でもなー。

 言い寄られたら面倒なことになりそうだしなー。


 なまじ自分の可愛さを自覚している分。

 そういう勘定を抜きにすることができない呪いである。


「……というか、いまの何回め?」


 入学して一週間。

 もはや一生分のナンパを経験した気がする。


 歩いている途中。

 食事中。

 レクリエーションの途中。


 何度、連絡先の交換を持ちかけられたか。

 女子校出身の雅子には、まるで異世界のような気分だった。


 なんなのだ。

 大学はお見合い会場なのか。

 勉強するところだろう。

 まったく、近頃の若者は恋に脳みそを支配されすぎだな!


 ブーメラン刺さりまくりな雅子であった。

 でも気にしない。

 だってわたしは一途だから。

 一方的な免罪符を掲げ、雅子は千切りキャベツをもそもそ食べた。


「ねえ、そこのあなたー」


 またか。

 雅子は左手を掲げた。


「すみません人妻なもので」

「わ、ほんとにやるんですねー」


 おっと?

 よく見れば、相手は女子であった。


 なんや可愛い女の子だ。

 両肩から、ふわっとしたツインテールを垂らしている。

 リスっぽい小動物の雰囲気を漂わせていた。


 モテ女子だ。

 これはモテ女子の気配がする!


「どちらさま?」

「あ、すみませーん。わたしぃー、同じ社会学部の一年なんですけどぉー」


 ころころ笑いながら、向かいの席に着いた。

 この相手の都合を考えないところが、きっと男子の征服欲をくすぐるのだろう。


「さっきの見てたんですけどぉー」

「あ、うん」

「ほんとに人妻さんなんですかぁー?」

「………………そうだけど」


 わずかに返事が遅れる雅子であった。

 一応、嘘をついている引け目は感じているらしい。


 いやでも、将来的には嘘じゃないし。

 なので、これは嘘ではなく『契約の前借り』です。

 そんな詐欺くさい狂言で、自分を納得させるのであった。


「なんで知ってるの?」

「知ってますよぉー。すっごい噂になってますもーん」

「え、どんな?」

「新入生に、すっごく可愛い人妻がいるってぇー。うちの大学のイケメンさんたち、めっちゃ斬り捨ててるらしいじゃないですかぁー」


 ほほう。

 いつの間にか、噂になってるらしい。


「それほどでも」


 なぜかどや顔の雅子である。

 悪名であるということを理解していない。


「でも、同い年っぽいですよねぇー?」

「そうだよ」

「それでご結婚をー?」

「…………まあね」

「そんなに旦那さんラブなんですかぁー?」

「もちろん」

「へぇー。格好いいですねぇー」


 そうだ。

 もっと褒めろ。

 わたしを崇め奉れ。


 変なスイッチが入りつつある雅子である。

 ドーパミン濃度、急上昇であった。


「でもー、なんか可哀想ですよねぇー」


 グサッ。

 雅子の胸に言葉が刺さった。

 手のひらをくるっとしたら、ナイフが握られていた感じだ。


「か、可哀想……?」

「だってぇー。こんな若いのに、一人の男性に縛られてるのって可哀想じゃないですかぁー。ご結婚してたら、サークルとかもできないんでしょー?」

「さ、サークルとか必要ないし。わたしにはオジサンがいれば……」

「えー。オジサンー? もしかして、年の差婚で亭主関白系ですかぁー。わぁー、ありえなぁーい」


 ズバサァッ!!


 袈裟懸けに一刀両断って感じであった。

 好きなことだけ言うと、モテ子ちゃんは行ってしまった。


 雅子に残ったのは、謎の敗北感と冷めたコロッケ定食だけであった。

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