第3話 きっとうなじのせいである
小路の住むアパート。
二階建てのコンクリート住宅。
一階に三部屋、二階に三部屋、計六部屋。
一階の部屋に大家さんが住む。
オートロックなし。
駐輪場を兼ねた裏庭あり。
その裏庭で猫を飼っている。
小路はアパートの階段を上った。
部屋は二階の階段わきである。
雅子の行動パターンを推測することは難しくない。
前回の同居生活において、彼女の機嫌を損ねることは日常茶飯事であった。
機嫌を直すための秘策は用意してあるが、『それを発動できるかどうか』が問題なのだ。
まず大前提として。
雅子はすでに、小路の帰宅に勘づいている。
お風呂に入っている場合を除き、雅子は常に小路の帰宅を察知できる。
ドアを開ければ、忠犬よろしく玄関で待っていたりする。
最初のころは、わんころみたいで可愛いなあとか思っていた。
しかし、親戚中をたらい回しにされた結果で身についたものだと知ったあとでは笑えない。
話を戻そう。
小路は悩んでいた。
雅子は根に持つタイプだ。
勝手に機嫌がよくなっていることはあり得ない。
となると、必ず昨夜の報復が待っている。
ドアを開けたら、跳び蹴りが入る可能性がある。
雅子は行動力のある女なので、割とすぐ暴力に訴えてくるのだ。
それがアホほど非力なのでむしろ可愛い……いやいや、惚気ている場合ではない。
それをいかに回避するか。
横に逃げれば、雅子が階下に落ちる可能性がある。
となると、手段は一つ。
自らの腹で受け止めるしかない。
さっき甘いものを食べたので心配だが、雅子は猫に負けるくらい弱いので大丈夫だろう。
……と、ここまでが小路の推測である。
ドアを開け、腹筋に力を込めた。
しかし、それは甘い考えだった。
事態は小路が考えているよりも急を要していた。
「お帰りなさいませ」
しずしずと、お辞儀をする女がいた。
一瞬、誰だかわからなかった。
それが雅子だと気づくのに時間を要したのには理由がある。
赤い着物姿だったのだ。
小路にはよくわからないが、ずいぶんと凝った染め物のように思える。
そして艶やかな黒髪を、後ろでくるりと丸めていた。
雅子は髪をいじらないタイプなので、かなり新鮮だった。
不覚にも、いつもより色っぽいとか思ってしまった。
きっとうなじのせいである。
なぜなら、男はうなじが大好きな生き物だからだ。
「た、ただいま……」
雅子は行動力のある女なので、割とこういう無駄な遊びをする。
いつかの夏は、プールに連れて行かなかったことを根に持って部屋をハワイアンに飾り付けて遊んでいたことがある。
そしていま、雅子は高校を卒業したばかり。
つまり暇なのである。
時間だけは有り余っている。
進学先の大学から事前課題が出ていたはずだが、そっちに時間を回そうとは露ほども考えてない様子であった。
「さあ、お疲れでしょう。鞄をこちらへ」
「お、おう」
ささっと鞄を奪われた。
そして、小路を先導するようにリビングへ向かった。
「お夕食ができております」
「お、おう」
鯛の尾頭付きであった。
近所のスーパーではなく、商店街にある鮮魚店で購入したものと思われる。
「こちらがお吸い物です」
「お、おう」
蓋を開ければ、ふわりと出汁の香りが鼻腔をくすぐった。
「ご飯をどうぞ」
「お、おう」
さっきから語彙力が低下しっぱなしの小路であった。
おそらく向こう一年分の「お、おう」を口にしたと思われる。
促されるまま、肉厚な鯛を咀嚼。
濃厚な身の旨味に、うっかり目を見開いた。
ただの塩焼き。
しかし圧倒的な腕力で、胃袋を掴んだ。
真鯛の旬は、年に二回。
春の産卵期前の『桜鯛』と、産卵後の体力が回復した秋の『紅葉鯛』が、脂がのって美味とされている。
まさに、これは桜鯛の真骨頂である。
お吸い物に口をつける。
これもまた美味。
なんやよくわからないが、少なくとも実家で正月に飲まされていたインスタントのお吸い物とは一線を画した。
そう、アレだ。
居酒屋で飲むやつみたいなのだ!
これが、あの雅子の料理?
最初は炊飯器でご飯も炊けなかったのに?
ひとすじ、涙が頬を伝う。
一心不乱にご飯をかき込んだ。
「オジサン。どう?」
「マジでうめえ」
「そうでしょう、そうでしょう」
「料理うまくなったな」
「オジサンのために頑張ったんだよ」
小路は感動した。
先ほどまでの自分を悔いた。
「ごめんな」
「どうしたの?」
「てっきりおまえが、昨夜のことを怒ってると思ってた」
「そんなことないよ。わたしだって、ちょっと焦りすぎたかなって思うところはあるし……」
小路の手を、優しく握った。
温かい手のひらである。
もう子どもではないと、痛烈に知らされるようだった。
「だって、オジサンはわたしを待ってくれたじゃん。だから、あんなことで嫌いになんてならないよ」
「…………」
じーんとした。
まだそんな歳ではないはずだが、自分が涙もろくなっているのを感じた。
「さ、オジサンが好きなお酒も買ってきたよ。飲んで飲んで」
「おう、ありがとう」
徳利によって注がれた日本酒が、小路の前に差し出された。
すでに小路は、陥落寸前であった。
しかし、運命の女神は悪戯が好きだった。
雅子の背後。
ちらっと謎の書類が見えたのだ。
婚姻届であった。
「おい、雅子」
「なんでしょう?」
「それ」
「……あっ」
あっ。
その一言が、完全に小路を正気に戻した。
「しまった! オジサンが酔った勢いでサインさせるつもりだったのに!」
「おまえ、考えることがえげつねえな!?」
とんでもない手法である。
もはや詐欺と呼んで差し支えないレベルであった。
「危ねえ! おれは風呂に入る!」
「あ、ちょっと待った!」
謎のプラカードを掲げた。
おそらくマリコのお手製である。
「お背中のお流しプランが『松』『竹』『梅』とございますが!?」
「いらねえって言ってんだろ!?」
怪しくてしょうがないのである。
あと『松』にちらっと『ローション』と書かれていたような気がするのは、きっと気のせいなのである。
一人で風呂に入った。
どうやら一番風呂のようだ。
「オジサーン。お湯、抜かないでねー」
「はいはい」
身体を洗って、湯船にインした。
じわーっと疲れが落ちていく。
危機一髪であった。
完全に手のひらの上であったのは否めない。
「……そんなに好きかねえ」
自身のすね毛の生えた脚を眺めた。
とても若いイケメンより魅力的だとは思えなかった。
「どっちにしろ、もう子どもじゃないってことか」
こっちも同様の覚悟で臨まなければならない。
小路は例の秘策に頼ることを心に決めるのだった。
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