第1話 つまりムラムラしていたのである


 雅子にとって、長い忍耐の日々だった。


 改めて叔父夫婦の家で世話になった一年。

 それは想像を絶する試練であった。


 たかが一年ちょっと。

 それを我慢すれば、里村先生も小路との同居を許してくれる。


 余裕のよっちゃんのつもりであった。

 乙女の底力舐めんなよ年増め、くらいのテンションだった。

 もちろん普段はおくびにも出さず「あら里村先生。Comment allez-vousコマンタレヴ?」とか言っていた。


   ※フランス語で『ご機嫌いかが?』の意。

    里村はより警戒を強めた。


 しかし異変を感じたのは、三日めのことだった。


 おかしい。

 なぜだ。


 眠れないのだ。


 叔父夫婦にあてがわれた部屋で、息を殺して眠る日々。

 それが苦痛でしょうがなかった。

 天井に潰されるような気分だった。


 小路と過ごした一年間のせいですっかり飼い猫ちゃんと化していた雅子マインドは、元の寒々しい家庭環境に耐えられなくなっていたのだ。


 悲惨なのは友人たちである。

 夜通し送られるメッセージの相手で寝不足が続いた。


 深夜アニメをたしなむ金髪ちゃんが大活躍だった。

 オジサンへの愚痴とアニメ実況が行き交う謎のメッセージ欄が誕生する。

 ちなみにマリコは『夜はちゃんと寝る派』なので、まったく相手をしてくれなかった。


 それからも戦いは続いた。


 留年なんて以ての外。

 なんとしても最短で卒業しなければいけない。

 それまで学院一の不良集団の一員だと言われていた雅子は変わった。


 ちゃんと授業に出る。

 テストでいい点を取る。

 ついでに押しつけられた生徒会も頑張る。


 雅子にとって、この一年。

 つまりムラムラしていたのである。


 あの年増め、卒業したら覚えてろ。

 そう固く誓っていたのに、いざ卒業したらマジでどうでもよくなっていた。


 鎖から解き放たれたわんちゃん状態。

 久しぶりの小路の部屋。

 雅子の取った行動は一つである。


「はいオジサン。サインして」

「……なんだ、これ?」


 雅子はフッと嘲笑した。

 相変わらず、人を小馬鹿にした顔も一級品に可愛かった。


「婚姻届だよ」

「…………」


 どうやらマジである。

 くらりと目眩がするようだ。


 同居人の愛が重い。

 小路は珍しく、素直に狼狽した。


 会社でも「動じない男」と評される小路である。

 実際は顔に出ないだけで思春期マインドは豆腐より脆かったりするが、いまは関係ないことだ。


「気が早すぎじゃねえか?」


 それでも拒否はしない小路である。

 この一年間で、すっかりロリコンの自覚が身についたらしい。


「そんなことないよ」

「もっと自分の人生を考えろよ」

「オジサン! まさか有耶無耶にする気!?」

「いやいや、そういう意味じゃなくて……」


 なぜか悪者の空気である。

 小路のほうが正論のはずだが、リビングの隅っこまで追いやられていた。


「卒業したら一緒に住むって約束したじゃん!」

「それは約束したけど」

「えろえろなことするって言ったじゃん!」


 それは言ってないのである。

 うっかり漏れた本音だが、小路としてはあまり聞きたくなかったのである。


「もちろん、いずれはその結論も視野に入れていくが……」

「やだやだやだ! キープちゃんはやだ!!」

「馬鹿! こうなった以上、おれは腹を括る。おまえの責任を取るつもりだ」


 会心の一撃である。


「そ、そうか。そうかそうか……」


 雅子、耳まで真っ赤である。

 この一年でさらにちょろくなっていた。


「そ、それはそうだよなー。オジサン、わたしのこと好きすぎるもんなー」

「…………」


 小路は静かにイラッとした。

 でも可愛いから許すあたり、どっちもどっちであった。


「でも、わたしはやだ!!」


 案外、頑固であった。

 小路はやんわりとした説得を試みた。


「よく聞いてくれよ。おまえは若いんだ。それに、これから大学に通うんだろ? もっと別の可能性が出てくるかもしれない」

「はあ!? わたしが浮気するって言いたいのかタコ!」

「おまえ口悪くなったな!?」


 一年のおあずけ状態が、明らかに悪い方向へ影響を及ぼしていた。


「ほら、留学したいとか、いいところに就職したいとか。世間は寛容になってるかもしれないが、まだ厳しい目で見るところもある。学生のうちの結婚が、そういうときに不利になったら後悔するだろ?」

「だってオジサンに悪い虫がつくかもしれないじゃん!」


 小路は唸った。

 女子校生にヤクザと呼ばれる男への評価として妥当なのか、甚だ疑問である。

 ただし一昨年の後輩女子の前例がある以上、頭から否定するのもこじれそうだった。


「……これだけは言いたくなかったが」


 小路は最終兵器を使うことにした。

 というか、いろいろ取り繕ったが本音としてはコレなのである。


「ぶっちゃけると、あの同居期間のせいで、おまえをそういう対象として見れるか自信ない」

「…………は?」


 雅子は真剣に考えた。


 そういう対象とは?

 グーグル先生の力を借りずとも、その結論にはすぐに至った。


 自然と、右手を振り上げていた。


「もういいオジサン嫌いっ!!」


 パチンッ、と小気味よい音がアパートに木霊した。


 同居リデビュー、一日めの夜。

 早くも家庭内別居の様相を呈していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る