第5話 良妻気取りである


 婚約とは言っても、最終的には口約束である。


 結ぶも易し、破るも易し。

 それをしたからといって、世界が劇的に変化することもない。


 小路はそう達観していた。

 しかし、それでも些細な変化に気づくようになった。


 たとえば朝、起きるとき。

 雅子が朝食を準備しながら婚約指輪にちゅーしてるのを目撃するのは、ちょっと胃に重たいのである。


「あ、オジサン。おはよー」

「……おはよう」


 決定的瞬間を見られても、平然としたものだった。

 それどころか楽しげに「キャッ☆」なんて言っちゃっている。


 ……自分の若さの消失を感じる。

 あと10歳くらい若ければ、自分もあんなこの世の天国みたいなリアクションを取れるのだろうか。


 よかった。若いうちに婚約しなくて。

 本気でちょっとイラッとした。


「バレンタインのご飯できてるよー」

「わざわざ作ったのか?」

「そだよー」


 びっくりである。

 魚のほぐし身を、あっさりめに味付けしたものだ。

 そういえば、昨夜はアジの開きだった。

 その残りを使ったようだ。


 もともと料理は好きなだった。

 それにスキルが追いつくと、こういうことになっちゃうらしい。


 朝から元気なやつだなあと思わずにはいられない。

 自分なら、その手間と引き換えにあと10分寝たい。


「行ってくる」

「いってらっしゃーい」


 ほぐし身の皿を持って、アパートの階段を降りた。


 おっさんのガチンコ部屋着。

 ユニクロのワゴンセールで購入した、上下グレーのルームウェア。

 もはやロリコン周知の30おっさんに、アパートの半径3m以内でおめかしをする理由はない。


「おはようございます」

「あ、どうも」


 下の階に住む奥さんと鉢合わせた。

 小路よりも、やや早めに出社するコールセンター勤務である。


 しかし、小路は堂々としている。

 たとえ上下ワンセット500円で叩き売られようとも、技術者が丹精込めて作った服なのであった。


「バレンタインちゃんのご飯ですか?」

「あいつが張り切っちゃって」

「あら。手作りっていいですねえ」


 相手も会話の間、まったく小路の服装を気にする様子はなかった。

 アパートの住人たちには、もはや慣れたものだった。


 おっさん化は進む。

 静かに、しかし確実に。

 自分たちの世界を侵食するのだ。


「それじゃあ」

「お気をつけて」


 彼女を見送って、アパートの裏庭へ。


「バレンタイン」


 古い犬小屋から黒猫が顔を出した。


「ナアナア」


 バレンタインである。

 もとの名をよしこ。

 雅子が近所で譲り受けた猫で、そのまま住み着いている。


 なお雅子にだけは懐かない。

 どうにもいけ好かない様子であった。


「朝飯だぞー」


 皿を置くと、すかさず食らいついた。

 ガツガツ食べながら、尻尾を垂直に立てている。


 このサインはなんだっけ。

 以前にネットで調べたのを、小路は記憶から掘り起こした。


 垂直に立てるのはご機嫌の様子である。

 どうやら普段のネコ缶と一線を画すことに気づいたようだ。


 なかなか違いのわかるニャンコである。

 すぐに皿も空っぽになる。

 小路も気持ちがいい。


「うまかったか?」

「ナア」


 よき返事である。

 この孤高の猫が、ここまで気に入るのも珍しい。


「そうか、そうか」


 小路に悪気はなかった。

 繰り返すが、悪気はなかったのである。


 わざわざ早起きして作った人がいる。

 ただ、その功労を知ってほしい。

 それだけの理由で、うっかり口を滑らせた。


「それ、雅子の手作りだぞ」


 一瞬、バレンタインが停止した。

 あまりに一瞬のことゆえに、小路は変化に気づけなかった。

 ただ、その尻尾は後ろ足の間に挟まってしまっている。


「じゃあ、また仕事終わったらな」

「……ナア」


 小路は意気揚々と部屋に戻った。

 そのあと、バレンタインが犬小屋で泣いていたことを知らない。


 バレンタインにとって。

 小路を独占する憎き相手の食事に心を奪われたなど、あってはならないことだった。


 擬人化ヒロインの座を手にして、小路の心を奪うまで。

 バレンタインは、雅子と終わりなき死闘を繰り広げるだろう。


 なお、残念ながらこの物語にそういう展開はないのである。


 一方、小路は部屋に戻った。

 すでに朝食は準備されていた。


「はい、朝ご飯ね」

「…………」


 ご飯と味噌汁と、白菜のお漬物。

 そして魚のほぐし身。


 バレンタインとおそろいであった。



 ***



 スーツに着替えた小路が、玄関で靴を履いていた。


「じゃあ、行ってくる」


 雅子は後ろで鞄を持っていた。

 良妻気取りである。

 階下では愛しのバレンタインが、自分の寝首をかくために擬人化の特訓をしているとは思いもよらない。


「あ、オジサン」

「なんだ?」

「週末の入学式、一緒に来てくれる?」

「あー。まあ、気が向いたらな」


 雅子は知っている。

 口ではそんなこと言いながら、ちゃんと余所行きのスーツをクリーニングに出しているのを。

 でも雅子は空気が読める女なので、そのことは黙っているのだ。


 ただし、その代わりにある要求を通すことにした。


「はい、オジサン」

「ん」


 しかし雅子の手から、鞄が離れない。

 そのことに小路が眉をひそめる。


「どうした?」


 雅子はつんと顎を上向けた。


「汝、鞄がほしければ行ってきますのちゅーをすべし」


『こいつ頭が湧いてんじゃねえのか』


 小路の表情は、まさにそんな感じだった。


「アホなこと言ってんな」


 あいてっ。

 まさかの額チョップである。

 小路は鞄を掴むと、さっさと出て行ってしまった。


「ちぇー」


 雅子はべっと舌を出すと、二度寝に向かうのだった。

 良妻気取りは旦那がいなくなるまでである。

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