人は怒ると、普通、言葉が乱れます。怒気にあふれた声や言葉には、近寄りがたいものがあるし、あまり見栄えがいいとはいえない。怒りが憎悪にまで高まると、言葉はなおさら醜くなることが多いでしょう。だから、怒りの表明には慎重にならざるを得ない。そして怒りを隠すうちに、初めからそんな感情はなかったというように、こころを偽ってしまうことも多くなるかもしれない。
でも、喜怒哀楽と俗にいうように、怒りというのは真っ当な感情のひとつです。それを抱えてしまったなら、解放する糸口をなんとか探さなければならない。たとえ、だれも傷つけたくないし、だれとも争いたくないとしても。そんな、表現せざるを得ない、切実な怒りを込めた言葉には、憎悪をまきちらす言葉とギリギリのところで袂を分かって、清廉な美しさが宿ることがある。そんなふうにも思えます。
この詩集には、切実な怒りと毒があります。その怒りからは、他人を攻撃したいという衝動よりも、世界を肯定したいという願いが多分に感じられてなりません。
何度も繰り返す言葉の裏側に、私は言葉とは違ったものを見て取りました。
「いなくなれ」と、「ざまあみろ」
まるで、「本当の自分をもっと見てくれ」、「こんなに汚れた言葉を吐ける自分を誰か愛してくれ」と云っているように感じます。
でなければ、一体誰がこんなに曝け出せるでしょうか。世間は醜いものを嫌います。汚いものから目を背けます。でもこの吐き出している本人はわざとそういった言葉を吐く。彼の中で巻き起こる矛盾。それは、汚いとされたそれらを一心に受け止めた結果なのではないでしょうか。そしてそれを半ば強行的に認めさせるように、ナイフへと形を変えさせた。共感を得たいのなら、もっと別の言葉があった。でもそうしなかった。彼にはその言葉が思いつかなかったのではなく、それを誇示することで自分の証明としたのです。
現代、ナイフが飛び交っています。何千と飛び交う中、必ず人生で一回は体に傷を負うでしょう。そんな時、嫌われ者になることさえ受け止めた、汚い言葉で身を着飾った純粋無垢な彼のことを、思い出さなければいけない。そして、彼と同じになるか否か。
何にせよ、これを見なければ話しは進まない。