第5話 1919年1月闘争・スパルタクス団の蜂起、

ドイツ革命が勃発し、皇帝が廃位された日、1918年11月9日、ローザは獄舎から解放される。社会民主党(SPD)は独立社会民主党(USPD)を加えて、共和政の新政府を樹立する(首班はエーベルト)。


わたしのノートはこう書いている。

《1月5日にベルリンで起こったことを前もって計画したり、あるいは予見したものは誰もいなかった。それは自然発生的な大衆の爆発だった。その契機は独立社会民主党の党員で唯一要職にあったベルリンの警察長官エミール・アイヒホルンが臨時政府によって解任されたことである。警察長官は首都ベルリンを守る保安隊を統括する。

アイヒホルンは解任を拒否し、同党のベルリン支部に支援を求めた。独立社会民主党、革命的オプロイテ、設立されてまもない共産党(スパルタクス団)は罷免に反対する抗議デモを呼びかけた。これが呼びかけた彼ら自身が驚くことになった。集まったデモの大衆は予想をはるかに超える規模で、中には武装した集団があった。これらの集団が新聞社街の通りを封鎖し大手新聞社全てを占拠した。これらの新聞は革命派を敵視する記事を印刷していた。当日押し寄せた人々は、50万人に上るデモに発展した。しかしストの指導者たちは巨大なデモに呪縛され、どうしていいか続行方法を決定できなかった。武装闘争を主張する者がいれば、エーベルトとの対話を求める者もいた。いつ暴徒化するかしれない労働者達も武装したままビル街に居座った。

大衆の熱気が指導者を動かし「反政府闘争を開始し、政府を打倒するまで戦い抜く」決議がなさ、『革命委員会』が形成された。翌日月曜日、大衆は再び街頭に出た。日曜日より人数が多かったぐらいである。しかし、この革命委員会はなんの指示も出さなかった。

これには、現場指導者と党本部の食い違いがあった。共産党の内部でさえ方針に対する意見の一致は見られていなかったのである。ローザ・ルクセンブルクはレーテ(労働者評議会)に結集して、国民議会選挙にも参加する方針を述べたが、リープクネヒトはエーベルト政府打倒を計画する労働者階級と疎遠になることをおそれ武装闘争の意見であった。採決の結果、リープクネヒトの意見が通った。独立社会民主党内では、闘争継続と政府との話し合い妥協の間で揺れていたのである。人民海兵団はこの事態に武装闘争に加わらず「中立」を宣言した。

1月6日、エーベルトは国防大臣グスタフ・ノスケ*に最高指揮権を与え、ドイツ義勇軍の武力を用い、デモを鎮圧することを早々に決めた。義勇軍の武力装備は圧倒的に優位であった。労働者が占拠していた通りや建物を急速に奪還した。労働者の多くが降伏し、また多くの労働者が射殺された。数知れない市民もこの戦闘の巻き添えとなり死亡した。1月15日、リープクネヒトとローザは近衛騎兵・狙撃師団に捕らえられ、殺害された。

敵状視察に出向いたノスケは後日、「急ぎの用事があるので通して欲しい、と繰り返し丁寧に頼んだ。そのたび道はこころよく開けられた。もしこの大群に饒舌家ではなく、断固とした、目的をはっきり意識した指導者がいたとしたら、彼らはこの昼にはベルリンを手中にしていたであろう」と、語ったとされている。》


ローザはかつて在籍したSPDの手によって殺されたのである。SPD、1891年にマルクス主義を掲げて設立された政党である。レーニンは革命政府を一緒にした、エスエル左派も切りすて一党独裁の道を進んだ。ローザはそれを批判した。

革命は戦いである、敗北は許されないとしたら、非情に徹するレーニン。あくまで革命に血が通う社会民主主義を唱えるローザ、さて、自分がその歴史の上に立てばどちらを選択するだろう。


*注釈;人物の年齢は1918年革命当時の年齢である。


【ドイツ社会民主党】

第1次世界大戦では「域内平和」をかかげ、ツアー政府の戦争に賛成、1918年11月のドイツ革命直前に政権に参加し、革命の中でエーベルトが政権を掌握。権力をレーテ(労兵評議会)に!を掲げるローザらの急進左派勢力を武力で制圧した。穏健中道左派を看板としたが、生き残った軍部と手を組み、反革命、労働者運動弾圧に血道をあげるあまり、労働者の離反を招き、ナチスに道を開き、1933年ナチスが政権に就くと活動を禁止され、解散に追い込まれた。戦後再建されたのが今のSPDである。

詳しくは「ワイマール共和国とは何だったのか」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054889754047/episodes/1177354054889754449を参照されたい。


【域内平和(城内平和)】

「城内平和」の語は、もともと中世ドイツの法において「城壁内での私闘禁止」を意味する語であった。1914年、第一次世界大戦勃発に際してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が帝国議会本会議において「余は党派なるものをもはや知らない。ただドイツ人あるのみだ」という演説を行い、議会内の最大勢力であった社会民主党が皇帝およびドイツ帝国政府の戦争遂行政策を支持した。


【カール・リープクネヒト】(47歳1871年- 1919年1月15日)

ライプツィヒ大学・ベルリン大学で法学や経済学を学び、弁護士となった。社会民主党左派の議員となる。一貫して戦争に反対した。その姿勢で、彼は個人としては労働者大衆からは尊敬されていた。何より、父ヴィルヘルム・リープクネヒトはドイツ社会民主党の創立者の一人であった。1916年からローザ・ルクセンブルクとともに、社会民主党左派としてスパルタクス団を組織した。同じ年、反戦デモの煽動者として投獄されたが、1918年のドイツ革命勃発直前の10月に釈放されている。


【フリードリヒ・エーベルト】(47歳1871年 - 1925年)

仕立職人の家に生まれ、国民学校を卒業後、馬具徒弟工となる。1889年頃に社会民主党(SPD)に入党、ハノーファーで馬具職人組合の書記長を勤める。SPDは1904年にブレーメンで党大会を開いたが、その議長を務めたのがエーベルトで、全国的な知名度を得た。1905年にSPD事務局長となりベルリンへ。そこでSPDの党学校学ぶ。そこでマルクス主義及び経済学の講師を務めていたのがローザ・ルクセンブルクであった。時に歴史は皮肉な出会いを設定するものである。1912年、帝国議会議員に初当選し、SPDは帝国議会第一党に躍進する。翌1913年党大会でフーゴー・ハーゼ*と並んで党首(SPDの党首は2人制)に就任する。


彼はベルシュタインのような理論家でもなかったし、大学を出たインテリでもなかった。また、リープクネヒトのように人を熱狂させるような演説家でもなかった。彼自身は馬具職人の修行を積んだドイツの職人の親方の典型のようであった。堅実で生真面目、視野は狭かったが、実務は整理されて信用がおけた。そうして彼は地位を得たのである。また、彼は祖国の愛国者であった。戦争!一致して戦う、それは当然のことであった。戦争には「域内平和」*を掲げて、協力する方針で党内を纏めた。エーベルトはさらなる革命は欲しなかった。彼は混乱より秩序を重んじた。それが保証されるなら、別に帝政でも良かった。降って沸いた共和制に彼は戸惑っていたのが正直なところであったろう。


【グスタフ・ノスケ】(50歳1868年‐1946年)

学校卒業後、職人修業を経て工場労働者となる。修業中から労働運動に身を投じる。1884年にSPDに入党。SPD主導の臨時政府からヴァイマル共和政の最初期にかけて、国防相を務める。エーベルの鎮圧命令に対して、ノスケは「いいとも、誰かが血に飢えた猟犬にならねばならぬ。私は責任を逃れない」と語ったという。スパルタクス団蜂起に続いて、レーテ共和国の鎮圧にも義勇軍を使った。第二次大戦末期、ナチスに逮捕され強制収容所に収容されたが、終戦とともに解放された。


【ロシア社会革命党(エスエル)】

「農民の中に入り革命思想を広める運動」・ナロードニキの流れをくむ革命運動家が1901年に結成した。「大土地私有制の廃止、農民に土地を」を掲げた。ボルシェビキの「農民に土地を」はエスエルのスローガンを拝借したものである。


映画『ローザ・ルクセンブルク』

1985年の西ドイツ映画。演じたバーバラ・スコヴァは第39回カンヌ国際映画祭女優賞を受賞した。


北風嵐【戦争と革命の時代】ロシア革命・ドイツ革命・ナチスの登場

https://kakuyomu.jp/works/1177354054889754047


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赤いローザ 北風 嵐 @masaru2355

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