第17話 私見・ワイマール共和国とは何だったのか?
私見
ヒンデンブルク⇒ルーデンドルフ⇒グレーナー⇒シュライヒャー、彼らはみな、帝国時代の軍人で、本来戦争責任*、少なくとも敗戦の責任を問われなければならない人たちであった。エーベルト社会民主党はそれを問わなかった。いや、戦争支持に回ったから問えなかったのである。責任を問わなかったばかりか、同盟を組んで反革命に血道を上げた。その結果、党員からも不信を買い、圧倒的支持の労働者大衆が離反した。代わったブルジョア保守党はナチス・ヒトラーの前になすすべもなかった。ナチスに道を開いた彼らの罪は大きい。
エーベルトがさらなる革命を欲しなかったのはそれで良いとして、しかし、議会主義に徹するなら、「域内平和」の間違いを訂正し、軍部との癒着と手を着ることを明確にすべきであった。そうすることによって、急進左派を議会主義のテーブルにつかせることはできたのである。統一、「兄弟で争うな」、そう、ローザもリープクネヒトもかっては社会民主党員ではなかったか・・!
一貫して影の主役を演じてきたのは帝政時代の尻尾を持った軍部であった。ナチス独裁が登場し、再度戦争に向かうのは必然の道であったと思えてならない。
立派な憲法を持っても、政治上層部にそれを生かす意思を持たない限り・・日本の今を省みて、私の思いは複雑である。
*注釈
ロンドン会議、アメリカのニューデイル政策に影響を与えたと言われる近代経済学の父・ケインズがこの会議に出て『平和の経済的帰結』という著書を表すきっかけになった。
第一次世界大戦後、ドイツに勝った連合国が、賠償金等を決めるこの会議にケインズがイギリスの大蔵省代表として参加したときに、ドイツが払えもしない賠償額を連合国の政治家たちが決めていく会議の様子を描き、実際ケインズはその後大蔵省をやめてしまうわけで、それに対して「こいつらは馬鹿ものだ」とケインズが怒っている、という内容である。
資料
社会民主党のヴァイマル共和政下の帝国議会における党勢推移
選挙日 得票率 獲得議席数(総議席数) 議席占有率 順位
1919年1月19日
37.9% 165議席(423議席) 39.01% 第1党
1920年6月6日
21,7% 113議席(459議席) 23.95% 第1党
1924年5月4日
20,5% 100議席(472議席) 21.19% 第2党
1924年12月7日
26,0% 131議席(493議席) 26.58% 第1党
1928年5月20日
29,8% 153議席(491議席) 31.17% 第1党
1930年9月14日
24,5% 143議席(577議席) 24.79% 第1党
1932年7月31日
21,6% 133議席(608議席) 21.88% 第2党
1932年11月6日
20,4% 121議席(584議席) 20.72% 第2党
1933年3月5日
18,3% 120議席(647議席) 18.55% 第2党
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