第16話 ワイマール共和国の混迷3

ここからは、ヒンデンブルクの息子オスカー(少佐・大統領府副官)と友人だったことを通じて、ヒンデンブルクに影響力を持つようになったシュライヒャーが主人公になる。シュライヒャーはグレーナーに引き上げられた人物だった。少し長くなるが、ヒトラー内閣成立過程に関わるところで、ここに登場する政治家の中にヒトラーを置くと、ヒトラーが一番まともな政治家に見えて面白いので読んで貰いたい。


(3)クルト・シュライヒャーの暗躍

(1932年当時50歳1882年 - 1934年)は陸軍士官の息子として生まれる。1909年に陸軍大学に入学。同大学でグレーナーに師事し、グレーナーの最も優秀な教え子であった。以降シュライヒャーはグレーナーによって引き立てられることとなる。グレーナーがルーデンドルフに代わって参謀次長となると、大本営参謀本部でその補佐にあたった。主な任務はベルリンの首相官邸との連絡役であった。1919年12月20日にベルリンで行われた参謀将校の会合に出席したシュライヒャーは、義勇軍の創設を提唱し、ハンス・ゼークト少将はじめ出席者の賛成を得た。こうして、シュライヒャーは義勇軍の装備と編成に大きな役割を演じた。

1928年1月にグレーナーがミュラー内閣の国防相となったことがシュライヒャーの権力を押し上げた。グレーナーは教え子シュライヒャーを「我が養子」と呼ぶほど信頼していた。国軍省と他省庁や政党との交渉を担当する部門として国軍省に大臣官房が置かれ、官房長にシュライヒャーが任じられ、彼は「政治将軍」として本格的に暗躍を開始することになる。


(14)ブリューニング内閣

シュライヒャーは、軍事費増強を担保として、後継首相にヤング案批准で活躍したハインリヒ・ブリューニングを推薦した。老いた元帥であるヒンデンブルク大統領の政治決定は、実際にはその私的顧問である息子のオスカーやその友人シュライヒャー、大統領府長官オットー・マイスナーから出ていたといわれている。ヒンデンブルクは中央党・人民党の協力を得、さらに社会民主党との大連立を目指したが、社会民主党が人民党との協力を拒絶したため、ブリューニング内閣は少数与党による議会運営を余儀なくされた。


ブリューニングは全面的な増税、さらに失業保険の1%引き上げを策定した。7月16日にこの法案が否決されると、ヒンデンブルク大統領は大統領令としてこの法案を施行させた。しかし社会民主党が大統領令の取り消しに動き、国会は取り消しを可決した。このためヒンデンブルク大統領は国会を解散し、その間にふたたび大統領令で増税を行った。これ以降大統領特権の連発となり、議会に基盤をおかない大統領内閣と称されるようになる。


解散した1930年9月の国会議員選挙は、ナチスを第二党(12議席⇒107議席)に大躍進させる結果になってしまった。ブリューニングはナチスに協力を求めたが拒絶され、国会運営はますます苦しくなった。一方で社会民主党はナチスを警戒してブリューニングの政策を「寛容」するようになった。各州での選挙でもナチスが躍進し、民主主義体制は危機を迎えた。

ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチスの躍進は、ドイツに対する諸外国の信用を一気に低下させた。このため海外資本の引き揚げはますます顕著となり、1930年末には失業者が400万人を超えた。このような情勢下でブリューニングの増税政策はますます支持されなくなっていった。


(15)ヒンデンブルクの再選(この時86歳であった)

1932年の大統領選挙、3月に行われた一次投票でヒンデンブルクは最多得票を獲得したものの、過半数には及ばなかった。4月10日の二次投票で再選が確定したが、2位となったヒトラーの影響力拡大は誰の眼にも明らかとなった。


1932年4月にブリューニング首相とグレーナー国防相兼内相は、ヒンデンブルク大統領にナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する命令を出させた。しかし効果は薄く、4月23日に各州で行われた地方選挙でナチ党はバイエルン州を除き、全ての州議会で第一党に躍進した。シュライヒャーはブリューニング内閣を見限り、自分を中心とした右翼大連立政権を画策してナチ党に接触し、ヒトラーと密会した。両者はブリューニングとグレーナーを失脚させること、突撃隊禁止命令を解除すること、国会を解散すること等で合意した。ナチ党とシュライヒャーはただちにグレーナーの失脚工作を開始した。国会演説で失態を演じたグレーナーを病気であるとの噂を流し、恩師であるグレーナーに冷たく辞職を勧告した。ヒンデンブルクやブリューニングにも見捨てられたグレーナーは5月13日に国防相辞職(内相には留任)に追いやられ、影響力をなくした。

さらに東プロイセンの地主(ユンカー層が占める)が管理しきれない土地を失業者に分配するというブリューニングの政策にユンカーたちが「農業ボルシェヴィズム」と反発したのを機にシュライヒャーはヒンデンブルクにブリューニング解任を提案した。ヒンデンブルクはこれに同意し、ブリューニングは翌5月30日に総辞職した。


(16)フランツ・パーペン(中央党)内閣

後継として、シュライヒャーはヒンデンブルクにパーペンを推薦した。シュライヒャーが当時ほとんど無名だったパーペンを首相に推薦したのは、パーペンが無経験で、操り人形にし易いと判断したからであった。

6月1日にパーペン内閣が成立し、シュライヒャーは退役して国防相として入閣した。パーペン内閣は貴族ばかりの内閣として国民の支持が皆無だった。ナチ党を除く全主要政党からパーペン内閣は攻撃に晒された。先のシュライヒャーとの約束によりナチ党のみがパーペン批判を控えていたのである。シュライヒャーは、早速ナチ党取り込み工作を開始し、6月3日にヒトラーと面会して協力を要請したが、拒絶された。

1932年7月31日の総選挙でナチ党が37.4%の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、第一党に躍り出た。シュライヒャーは8月5日にパーペンに独断でヒトラーと面会し、パーペン内閣に副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーはこれを拒絶し、首相の地位を要求して譲らなかった。シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに取り計らう様になったが、ヒンデンブルクもパーペンもその意思はなかった。ヒンデンブルクは伍長にしか過ぎなかったヒトラーを毛嫌いしていたし、パーペンはいくつかの閣僚職を提供することでナチ党を取りこむことができると考えていたのである。

同年11月6日に行われた総選挙では、ナチ党は議席を大きく減らしたが、しかし第一党は確保した。また同時に共産党も躍進した。左右の両極が伸長したのである。


(17)シュライヒャー内閣の成立

パーペンを見限ったシュライヒャーは、パーペンに内閣総辞職を求めた。11月17日にパーペン内閣は形式的に内閣総辞職して暫定事務処理内閣に移行した。しかしパーペンはいずれヒンデンブルクから再度組閣の命令が来ると信じていた。

12月1日、ヒンデンブルク大統領はパーペンとシュライヒャーを招集し対ナチ対策を話し合った。パーペンは国軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化するクーデター計画(憲法違反)を提案した。しかしパーペンを失脚させたがっていたシュライヒャーはこの計画に反対し対案を出した。シュライヒャーは自分が首相に就任し、ナチ党の一部を取り込んでナチ党の分裂を誘うべきと主張した。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、国軍に影響力を持つシュライヒャーは頑として国軍のクーデターへの参加を拒否した。

翌12月2日の閣議でシュライヒャーは「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけで、ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンを退陣に追いやった。12月2日にシュライヒャーに組閣命令が下った。


(18)ナチ党分断工作

シュライヒャーは首相に就任してすぐ、ナチ党組織全国指導者グレゴール・シュトラッサーと接近を図り、彼に副首相とプロイセン州首相の地位を提示して、ナチ党の分断工作に着手した。ナチ党の選挙資金は枯渇しており、まともな選挙運動はほとんどできず、12月4日のテューリンゲン州議会選挙では前回選挙と比べて40%もの得票を失うという大惨敗を喫していた。組織全国指導者シュトラッサーの元には離党届が次々と届いていた。こうした情勢に焦っていたシュトラッサーは、ナチ党指導者会議ですぐに入閣せねば党が瓦解すると主張した。しかし非妥協的なヒトラーはシュトラッサーを徹底的に非難・罵倒した。結局、シュトラッサーは党の役職を辞することとなり、シュライヒャーのナチ党分断策は失敗した。

パーペンは自分を失脚に追い込んだシュライヒャーへの復讐心に燃えて、ヒトラーと接近していた。1月4日にヒトラーとパーペンはシュライヒャー政権の打倒とそれに代わるヒトラー=パーペン政権の樹立で合意した。1月22日の会談にはシュライヒャーの旧友オスカー(大統領の息子)や銀行家、さらに大統領府長官オットー・マイスナーも加わり、オスカーとマイスナーの説得でヒンデンブルク大統領はヒトラーへの嫌悪を和らげた。さらに1月26日にはパーペンは国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクや鉄兜団団長フランツ・ゼルテと会談し、国家人民党や鉄兜団*のヒトラー内閣への参加・協力の約束を取り付けた。

こうした動きに気付いたシュライヒャーは、1月23日にヒンデンブルク大統領にナチ党分断策が失敗に終わったことを告げ、国会を解散して国家緊急事態を宣言し、ナチ党と共産党を禁止する事を求めた。しかしヒンデンブルクは12月1日にパーペンが同じことを提案したのを君が潰したはずだと言ってこれを拒否した。シュライヒャーはあの時とは状況は全く変わったなどと言い訳したが、ヒンデンブルクは取り合わなかった。彼はヒンデンブルクの自分への冷たい態度は首相辞任後も足繁く大統領のもとへ通っていたパーペンの入れ知恵の仕業だと考えて、パーペンへの憎しみを募らせた。

ついに1月28日、ヒンデンブルク大統領と会見したシュライヒャーは辞職を申し出て、ヒトラーを後継首相にするようヒンデンブルクに勧めた。ヒンデンブルクは「将軍、祖国に尽くした君の尽力に感謝する。では神のお力でこれからどうなるのか見てみようじゃないか」と答えたという。それでもシュライヒャーは憎きパーペンが中枢となって活躍する政権だけは阻止しようと図り、1月29日に陸軍統帥部長をヒトラーの下へ派遣して、パーペンの胡散臭さを吹聴してナチ党のパーペン不信を煽り、またヒトラーに協力したい旨を申し出たが、パーペンと組んで政権を作る気であったヒトラーは曖昧に対応した。


(19)ヒトラー内閣成立

1933年1月30日にヒトラーが首相に任命され、パーペンはヒトラーに次ぐ副首相として入閣した。


シュライヒャーは、その後は引退生活を送ったが、1934年6月30日の「長いナイフの夜」事件においてナチ親衛隊により夫人もろとも粛清された。分断工作の相方であった、元ナチ党組織全国指導者シュトラッサーもこの夜に粛清された。


ナチはこの政権掌握を「国家社会主義革命」と定義した。2月27日の国会議事堂放火事件によって発令された緊急大統領令は、憲法の基本的人権を停止するとともに、実質的に他の政党の抵抗力を奪った。同年3月、ヒトラーは全権委任法を制定し、憲法に違背する法律を制定する権限を含む強大な立法権を掌握した。これにより、ヴァイマル憲法は事実上その効力を失った。さらに、1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは国家元首と首相の地位を合体(総統)し、8月19日には国民投票を実施(90%近い賛成票)してこの措置を国民に承認させた。こうして、ヒットラーのナチス独裁が完了したのである。


*鉄兜団:準軍事組織の最大組織であった。

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