第15話 ワイマール共和国の混迷2

「共和国内閣の混迷」

ワイマール共和国内閣の混迷をナチス政権が出来るまでを順を追って見てみよう。細かいことは抜きにして、いかに混迷したかが分かって貰えればいい。


(1)エーベルト=シャイデマン体制

1919年1月19日、予定通り国民議会選挙が行われた。共産党はボイコットしたものの、投票率は82.7%と高率*であった。社会民主党・中央党・ドイツ民主党が多数を占め、ワイマール連合政府を形成した。大統領選挙でエーベルトが大統領に選出され、シャイデマン(SPD)を首相に指名した。


(2)同年、ヴェルサイユ条約に抗議してシャイデマンが辞任、グスタフ・バウアー(SPD)内閣が成立した。


(3)1920年3月カップ一揆の責任を取る形でバウアー首相は退陣して、ヘルマン・ミュラー(SPD)が首相になる。この時ノスケも国防相を解任された。


この事件によって社会民主党政府は大きく労働者の支持を失い。1920年6月の国会選挙で社会民主党をはじめとするワイマールル連合の勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派の国家人民党や人民党が大きく議席を伸ばした。


(4)同年、社会民主党が人民党との協力を拒否したため、中央党と民主党と人民党の3党によるフェーレンバッハ(中央党)内閣が成立した。


(5)1921年3月から行われたロンドン会議*において、賠償金の金額は1320億金マルク、具体的には毎年20億マルクと輸出額の26%を30年間支払う方式による返済が定められた。フェーレンバッハは受諾不可能として辞職し、かわって就任したヨーゼフ・ヴィルト(中央党)のもとで受諾された。


(6)同年、10月、社会民主党に独立社会民主党の右派が合流した。このため社会民主党は左傾化し、エーベルトが提唱した人民党との連立を拒否した。ヴィルト内閣は総辞職し、中央党・人民党・民主党・国家人民党の支援を受けるヴィルヘルム・クーノ(無所属)内閣に代わった。


1923年1月、フランスは賠償金の未払いを理由にして、ドイツ屈指の工業地帯であるルール地方の占領を開始した。ドイツ政府はこれに官公吏のフランスへの協力を禁止し、鉱工業従事者にストライキやサボタージュを呼びかける「消極的抵抗」で対抗した。ドイツ産業の心臓部であるルール地方の経済活動の停滞は経済に重大な影響を与えた。

かねてから進行していたインフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となった。これにより中産階級は没落し、大企業のコンツェルン化が進んでいった。このため社会不安はますます顕著となった。


(7)同年8月にクーノ内閣は倒れ、国家人民党と共産党を除く各党の支持を得たグスタフ・シュトレーゼマン(人民党)が首相となる。シュトレーゼマンは占領への消極的抵抗を中止し、パピエルマルクから国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行い、インフレの沈静化に成功した。


(8)同年11月、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)をはじめとする州の極右派が、ミュンヘン一揆*(ナチスのところで説明)を起こした。一揆はバイエルン州の警察によって鎮圧されたが、政府による鎮圧応援はされなかった。社会民主党は極右派に対する姿勢が弱腰であるとして連立を離脱し、11月23日にシュトレーゼマン内閣は崩壊した。後継内閣はヴィルヘルム・マルクス(中央党)が組織し、シュトレーゼマンは外相となった。


1924年4月にアメリカをはじめとする連合国側は「ドーズ案」を作成し、ドイツも受諾した。これはドイツに8億マルクの借款を与え、一年あたりの支払い金額も緩和するものであった。国家人民党はこの案を「第二のヴェルサイユ条約」として批判し、1924年5月の国会議員選挙では国家人民党をはじめとする右派、さらに共産党が躍進した。国会は機能不全に陥り、12月には再び国会選挙が行われた。ドーズ案の受け入れ後に景気は好転し、失業者もほとんど消滅して、ルール占領も解除された事で極右と極左は退潮した。


(9)しかし連立交渉はうまくいかず、マルクス首相は12月に辞職、翌1925年1月にハンス・ルター(無所属⇒人民党)内閣が成立するまで議会は空転した。


1925年2月28日にエーベルトは死去し、大統領選挙が行われる事になった。


(10)ヒンデンブルクが第2代大統領になる。

国家人民党・人民党の押すカール・ヤレスは38%の票を獲得し首位となったが、当選には過半数に達せず、当選にはいたらなかった。社会民主党・中央党・民主党のワイマール連合は統一候補としてマルクス元首相を立て、大統領の座を確保しようとした。ヤレスでは対抗できないと考えた右派は、かつての参謀総長ヒンデンブルクを新たな候補として擁立し、第二回投票でヒンデンブルクが当選した。このヒンデンブルクの勝利は共産党が独自候補に固執した事が原因とされる。


(11)この後も政党の離合集散が相次いだために政権は不安定であり、ルター、第二次マルクスと短命の内閣が続いた。しかし右派の期待を集めていたヒンデンブルクが憲法を遵守する姿勢を取っていたため、いずれの政変の際も議院内閣制は守られた。


(12)1928年度海軍の戦艦予算の増強をめぐって、この建造費が過大であるとして、社会民主党、民主党、共産党は反対した。1928年5月の選挙で社会民主党は「軍艦より子供の給食を」をスローガンとして、社会民主党や左派政党は躍進し、6月28日には社会民主党主導の第二次ミュラー(SPD)内閣が成立した。しかしミュラー内閣は、海軍の強い抵抗にあい、戦艦の予算を復活させた。社会民主党がこれを許さず、内閣に参加していた社会民主党閣僚も投票では反対に回った。この経緯は与党、社会民主党に対する信頼をさらに傷つけることになった。


外交面ではいわゆる「シュトレーゼマン外交」により、ドイツの国際的地位は回復していった。ロカルノ条約の締結によりドイツは1926年に国際連盟に加盟。独仏の関係の緩和により、ヨーロッパ全土もしばらくの間、相対的安定期を迎えることになる。

経済面は好況が続き、1926年のリストラによって一時増大した失業率も1928年には5%台に回復、労働条件も飛躍的に改善された。この相対的な安定期は『黄金の20年代』 と呼ばれている。この好景気をもたらしたのはアメリカ資本の流入であったが、大半が短期資本であり、本国の事情によってはいつ引き上げられるかわからないものであった。


1929年2月「ヤング案」が提示された。これは、賠償金支払いが緩和されたが、その分期間が伸ばされたものであった。ナチスや右翼勢力は反対闘争を開始した。

好調であったドイツ経済も、アメリカ資本の株式投機への資金移動により、1928年の後半から減速し始めた。1929年の冬には失業者が200万人を越えるようになった。このため失業保険(ワイマール憲法では整備されていた)の支払いが膨大な額となり、何らかの対策が迫られ、政府は拠出割合を現行の3%から0.5%引き上げる法改正を行った。しかしこれは資本家の猛反発を受けた。さらに10月24日に発生した世界恐慌により、アメリカ資本の引き上げが開始され、ドイツ経済は再び最悪の状態を迎えることになった。


(13)ヤング案は1930年、辛うじて国会で承認された。しかし失業者はなおも増大して350万人に達し、失業保険が再び議論となり、ミュラー内閣は拠出割合をさらに0.5%上げる政策案を提示したが、再び人民党が反対して実現に至らなかった。政府は国庫から失業保険に対する支出を行い、足りない場合には0.25%拠出割合を引き上げるという妥協案を提示したが、今度は社会民主党出身の労働相ロベルト・シュミットら労働組合勢力は組合の利益にならないとして妥協案に反対し、社会民主党全体を妥協案反対に賛同させた。このためミュラーは進退窮まって3月27日に辞職し、社会民主党は自らの手で自らの首相の命運を絶った。

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