第14話 ワイマール共和国の混迷1

(1) ワイマール憲法

共和制を規定した憲法であり、男女の普通選挙による議会政治、国民の直接選挙で選ばれる大統領制に加え、世界で最初に労働者の団結権、団体交渉権を認めた社会権の保障を明記した当時における世界で最も民主的に進んだ憲法であったとされる。


大統領は議会の解散権を有し、議会は不信任決議をすることで首相を罷免させることができるとし、国会の選挙方式は比例代表制で、投票者は政党にのみ投票する拘束名簿式であった。得票6万票ごとに一人が議員に選出されるため、議員定数は存在しなかった。二院制をとり、参議院は各州からの代表者が送られた。

この完全比例代表制は、少数政党乱立を防止するための阻止条項たる最低得票率制限がなかったため、ワイマール共和国内閣は常に少数の複数政党による連立内閣となり、議会運営に困難をきたした。

何よりの問題点は『大統領に緊急命令権』が与えられていたことである。秩序回復のためには武力行使を含めて緊急手段をとることが認められ、その際には基本的人権に関する諸規定を一時停止する事もできたのである。エーベルトはこれを革命運動や過激な労働者の運動の弾圧に使った。また、ヒンデンブルクはこの大統領特権を連発し、国会をないがしろにした大統領内閣政治を行った。この大統領特権はナチスに上手に利用された。


では、どんな政党があったのであろうか、


ドイツ社会民主党(SPD)

1875年結党、マルクス主義を綱領に掲げていたが、党勢の拡張に伴い(1913年に党員108万人を突破した)議会主義を重視する右派的になっていった。1912年の帝国議会選挙では社民党は得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となった。国際的にも第二インターナショナルの中心勢力として重要な存在であった。第一次大戦では「域内平和」を掲げ、戦争に賛成した。ワイマール共和国では常に第1党か、2党の位置を占め、与党的立場であったが、労働者の党としての一貫性のなさ、軍部と結びついたところに問題があった。結果、ナチスを防ぐことができなかった責任は大きい。

章末尾にワイマール時代の党勢推移を参考資料として付記しておく。


独立社会民主党(USPD)

戦争継続に反対して社会民主党の左派が分党する。後に、共産党(KSP)と合流する部分と社会民主党に復帰する部分に別れる。


ドイツ民主党

帝政時代の進歩人民党と国民自由党の左派が統合されて1918年に創立された政党である

ワイマール連合の一翼を担うリベラル政党。しかしドイツ民主党は「ユダヤ人の党」「教授の党」などと呼ばれて激しい攻撃を受けた。選挙も後退が続いた。


中央党(カトリック系政党)

帝国時代の議会における第一党を続けた(得票率ではSPDより下であったがカソリックに有利な選挙制度で第1党であった)。保守派と自由主義派の中間という意味である。ワイマール連合の一翼を担う。ワイマール共和国において社民党と並んで最も多くの首相を輩出し、歴代政権において主導的な役割を果たした


ドイツ人民党

ワイマール共和国政体に敵対的であったが、徐々にリベラル寄りの保守政党となった。特に党首のシュトレーゼマンは1923年から29年の間、9回の内閣にあって外務大臣の職にあり続けた。50議席前後は保持していたが。右旋回した1930年の選挙では大幅に議席をなくした。


ドイツ国家人民党

保守、右派政党。裕福な地主(ユンカー)や実業家などが中心的支持層であった。ワイマール憲法と共和制に反対していた。世界恐慌が起こると経済危機と共産主義の台頭を恐れ、ナチス党と提携した。1920年代には社会民主党に次ぐ第二党の地位を保持し、政界に強い影響力を持っていたが、党分裂の影響で得票を落とし、1930年代には第五党で推移した。


ドイツ人民党、ドイツ国家人民党の、人民と名がつく二つがワイマール共和制に反対する保守・右派政党であると覚えて貰ったらいい。


共産党(KPD)については後で触れる。

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