第13話 エーベルト=グレーナー同盟

(3)ヴィルヘルム・グレーナー(51歳1867年‐1939年)

ドイツ南西部・ヴュルテンベルク王国に、連隊主計官の息子として生まれる。陸軍大学で学び、参謀本部に配属され、以後17年間を鉄道兵站の専門家として過ごす。1912年に鉄道部長に就任し、第一次世界大戦でも戦線移動に伴う膨大な鉄道輸送業務の責任者となる。ルーゼンドルフが軍需生産の中枢として「戦争局」を設置させた際、その能力を高く買って引き上げたのがグレーナーであった。ドイツの敗戦を目前にしてルーゼンドルフが参謀次長を辞すると後任に就任し、最高司令官である参謀総長ヒンデンブルクの下で全ドイツ軍の撤収と復員の責任を負うことになる。


騒然となった、首都ベルリン、11月9日、ウイルヘルム2世はオランダに亡命し、共和国が宣言され、混乱の中で臨時政府の首相になったのが社会民主党党首のエーベルトであった。


(4)フリードリヒ・エーベルト(47歳1871年 - 1925年)

仕立職人の家に9人兄弟の7番目の息子としてハイデルベルクに生まれ、国民学校を卒業後、馬具徒弟工となる。1889年頃に社会民主党(SPD)に入党して政治運動に入り、ハノーファーで馬具職人組合の書記長を勤める。しか当時の社会主義者鎮圧法により当局に監視されていた彼はブレーメンに引っ越しを余儀なくされる。SPDは1904年にブレーメンで党大会を開いたが、その議長を務めたのがエーベルトで、全国的な知名度を得た。1905年にSPD事務局長となり、14年住んだブレーメンを離れてベルリンに引っ越し、そこでSPDの党学校学ぶ。そこでマルクス主義及び経済学の講師を務めていたローザ・ルクセンブルクに習った。時に歴史は皮肉な出会いを設定するものである。1912年にエーベルトは帝国議会議員に初当選し、SPDは帝国議会第一党に躍進する。翌1913年にアウグスト・ベーベル(党の創設者の一人)が死ぬと、9月20日の党大会で彼はフーゴー・ハーゼ*と並んで党首(SPDの党首は2人制)に就任する。

彼はベルシュタイン*のような理論家でもなかったし、カウツキー*やハーゼのように大学を出たインテリでもなかった。また、リープクネヒトのように人を熱狂させるような演説家でもなかった。彼自身は馬具職人の修行を積んだドイツの職人の親方の典型のようであった。堅実で生真面目、視野は狭かったが、実務は整理されて信用がおけた。そうして彼は地位を得たのである。また、彼は祖国の愛国者であった。戦争!一致して戦う、それは当然のことであった。戦争には「域内平和」*を掲げて、協力する方針で党内を纏めた。


11月9日の革命が起こり、帝政が倒れ共和制が宣言されると、グレーナーは革命のさらなる急進化(グレーナーによるとボルシェヴィキ化)を防ぐため、翌10日、エーベルトに軍部の支持を持ちかけ、エーベルトはこれを受け入れた。エーベルト・グレーナー同盟である。これによりエーベルト暫定首相は強力な後ろ盾を得たことになる。

エーベルトもさらなる革命は欲しなかった。いやそもそも、11月の革命は彼の中ではあってはならないもであった。社会鎮圧法を廃止したのはカイザーではなかったか、社会民主党は順当に発展してきた。今や議会では第一党ではないか、満足ではなかったが、勝ち取ったものはあったし、労働者の生活も改善している。このまま、今後も順調に行くだろう。彼の計画の中には革命はなかった。むしろ、革命は「迷惑で憎むべき」ものであった。秩序さえ維持されるのなら・・彼は帝政でも良かったのである。彼は混乱より秩序を重んじた。降って沸いた共和制に彼は戸惑っていた。


これで、3人の軍人と1人の政治家の関係が分かって貰えただろうか?もう一人軍人から政治家に転身したクルト・シュライヒャー(36歳1882年- 1934年)について述べたいのだが、彼はグレーナーの配下にあった人物で、ナチス政権樹立に複雑に関わった人物なので、「ナチス政権の誕生」のところで述べることにする。


*人物

ベルシュタインとカウツキーは大学時代からの友達でカウツキーがマルクス主義者となったのもベルシュタインの影響であった。ベルシュタインの修正主義に反対したのがカウツキーとローザである。修正主義とは「議会主義の中で改良を積み重ねていけば社会主義の目標は達成できる」とする改良主義で、これは平和が続くことを前提とし、帝国主義戦争が必至と見るローザはこれを日和見主義とした。正当マルクス主義を任じるカウツキーはマルクス主義に反すると考えた。修正主義は党内では理論上は否定されたが、エーベルトに見るように根深い影響を与えた。ハーゼはエーベルトと共に社会民主党の共同党首となったが戦争末期、戦争継続に反対してSPDを出て独立社会民主党を立ち上げた人物である。


*注釈 域内平和

1914年8月4日、ドイツ社会民主党は政治的に破産した。これがローザやリープクネヒトがスパルタクス・ブント(党内分派)を立ち上げた理由である。

第2インターナショナル(社会主義者の国際組織)では、帝国主義戦争が起きた場合これに反対すると1907年シュトゥットガルト大会では決議されていた。この時、共同提案したのがレーニンとローザ・ルクセンブルクであった。緊迫したヨーロッパ情勢のもと、1912年11月バーゼルで開かれた緊急大会でも再確認されたのである。にも関わらず、第2インターの中心メンバーであるドイツ社会民主党が「域内平和」に転じたのである。戦時予算を認め、労働組合はストライキを自粛、政府の戦争遂行政策に対して批判を行わないよう協定したのである。国会議員の中で最後まで一貫して反対したのがリープクネヒトであった。

イギリス労働党はすでに戦時公債には賛成を表明していた。熱心な戦争反対論者であったフランス社会党の指導者ジャン・ジョレスは7月に愛国者によって殺害され、フランスは戦時予算の賛成の立場に立った。レーニンは怒り、ローザの落胆は大きかった。ここに第2インターは崩壊した。

ベルシュタインの修正主義論争のとき、ローザと論戦を共にしたカウツキーも「インターナショナルは戦時には有効な武器ではない」として、賛成にまわった。愛国ナショナリズムの前に、プロレタリアート・インターナショナルは敗北したのである。


カウツキーに対して、ローザは、

「平時には、あらゆる国の内側では階級闘争が、外側では国際的な連帯が必要だが、戦時には、国内では階級協調が、国外では各国労働者間の戦闘が必要なのだと。今や共産党宣言の歴史的なアピールは、今やカウツキーによって、次のように訂正されたのだ。――

万国のプロレタリアートよ、平和な時代には団結せよ、しかし戦時には、互いに相手の喉ぶえに食いつけ!と・・なぜならインターナショナルはその本質において平時の道具であって、戦時にはいかなる有効性ももたない、からである」とカウンターパンチで反撃した。

ローザはカウツキー宅を訪れる関係であったが、それでもローザはカウツキー夫人とは死ぬまで手紙のやり取りは続いたという。

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