第12話 参謀本部の二人(ヒンデンブルクとルーデンドルフ)

第一次大戦からナチスまでの混乱したドイツを語るとき・・特にドイツ革命を語るときには、三人の軍人と一人の政治家を語らねばならない。

三人の軍人とはパウル・ヒンデンブルク、エーリヒ・ルーデンドルフ、ヴィルヘルム・グレーナーで、一人の政治家とはワイマール共和国の初代大統領フリードリヒ・エーベルトである。ヒンデンブルクは2代目大統領となる。


(1)ヒンデンブルク(71歳1847年 - 1934年)

プロイセン王国・ポーゼンでユンカーの家に長男として生まれた。代々軍人の家系であり、父もまた軍人(少尉)で、母は軍医の娘であった。士官学校在学中にプロイセン王の王妃の近習を務めたこともあり、王妃から賜った懐中時計を終生大事にしていたという。

ヒンデンブルクは開戦時に第8軍司令官に就任し、その第8軍の参謀長に任じられたのがルーデンドルである。ロシアとのタンネンベルクの戦いで大勝利をおさめ、一躍『国民的英雄』となった。タンネンベルクの戦いの実際の作戦立案を取り仕切ったのは参謀長ルーデンドルフであった。ヒンデンブルクは東部方面軍司令官となり、ルーデンドルフが東部方面軍参謀長になった。以降、大戦中二人の関係は続き、ヒンデンブルクは回顧録の中でルーデンドルフとの関係については、「幸福な結婚」と表現している。一方、ルーデンドルフは、常にルーデンドルフが頭脳であり、ヒンデンブルクはお飾りの存在であったと述べている。


ファルケンハイン参謀総長は西部戦線を重視し、東部戦線に無駄な援軍を送りたがらなかったから、ヒンデンブルクやルーデンドルフらとファルケンハインら参謀本部は常に対立していた。これに対しては、ヴィルヘルム2世はどっちつかずの態度であった。ファルケンハインが発動した西部戦線のヴェルダンの戦いは思わしくなく、ヴィルヘルム2世は彼を更迭した。ヒンデンブルクは参謀総長、参謀次長はルーデンドルフとなり、二人は参謀本部入りする。ヒンデンブルクはお飾りで、実権はルーデンドルフという関係は勿論変わらなかった


*人物

ヴィルヘルム2世(59歳1859年 - 1941年)

29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位した。彼は親政行いたく、ドイツ統一の宰相、オットー・ビスマルクを煙たがった。社会主義者鎮圧法が期限切れになり、ビスマルクは恒久法化の意向であった。これには社会主義者や労働者の反対運動の急進化が予想された。ヴィルヘルム2世は国内治世を穏健化させて、世界政策に重きを置きたかった。国内治世を優先するビスマルクと方向が違った。社会主義者鎮圧法を延長させずに廃止し、ビスマルクを退陣させた。これが、治世前期に社会政策に開明的であった理由である。しかしその後保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。

ビスマルク時代以降、ドイツは大きな戦争に巻き込まれることも無く、産業化に成功し経済規模は拡大していた。1875年に4200万人だったドイツの人口は1913年には6800万人に増加していた。この余剰人口を海外へ移住させたいという意図もあり、外交では一貫して帝国主義政策を推進した。ヴィルヘルム2世の「世界政策」は2つの方向、一つはアフリカでの植民地獲得、もう一つはバルカン半島から中近東に勢力を拡大していくことであった。その象徴がバグダート鉄道と3B政策であった。しかし「3B政策」は、ロシアのバルカン・中近東への南下政策やイギリスのカルタッタ、カイロ、ケープを結ぶ「3C政策」中東に権益を持つフランスと対立し、第1次世界大戦に繋がることになる。

ヴィルヘルム2世のドイツの内政と外交について語った対談がイギリスの新聞『デイリー・テレグラフ』に掲載された。この対談でのヴィルヘルム2世の「軽口」が国内外で問題視され、国内では議会への影響力を失い、統帥権のある軍の活動に制限された。

オランダに亡命後はその死までの23年間を、少数の近臣を従えながらユトレヒト州ドールンの城館で貴族として安楽な余生を送ったとされる。


(2)エーリヒ・ルーデンドルフ(53歳1865年 - 1937年)

プロイセン王国の地主の息子として生まれ。母親は有名なユンカー家(大地主貴族)の出身。プロイセン陸軍大学卒業後、参謀本部勤務。「平和とは二つの戦争に挟まれた休戦期間に過ぎず、全ての手段は戦争指導に従属させるべし」というのが彼の主張で、政治の方が戦争指導の手段と考え、職業軍人でありながら「全ドイツ協会」という政治団体を使って積極的に政治の世界に関わり、大戦中期から後期には「ルーデンドルフ独裁」とも呼ばれる巨大な実権を握った。

「有能な、将軍なら他にもいた。他のすべての将軍たちから際立たせ、彼に決定的な権力を与えたものはただ一つ、彼の一徹な、いささか非人間的な無欲だけである」と、『裏切られたドイツ革命』*の著者は書いている。非人間的な実務家であるがゆえに、思い切って最善を尽くし、向う見ずなことを思い切って決断した、無制限Uボート作戦、反対を押し切ってのボルシェビキ政府との講話、これらは、西部戦線での決戦を決めた彼の決断であった。

戦後はアドルフ・ヒトラーと結び、ミュンヘン一揆を起こしたことや、『総力戦』の著者としても知られる。


ヒンデンブルクは迷信的に称える取り巻きたちに囲まれて、外部からの情報が遮断されており、そのためドイツの戦況について詳しく知らなかった。なおも戦況を楽観視していた。一方ルーデンドルフは優秀な軍人であった。アメリカの参戦、最後の防衛線・ヒンデンブルグ塹壕線に一点穴が空いた、彼にはそれが巨大な堤防が決壊する予兆に思え、戦況を絶望視し、決断をした。

1918年9月28日、一刻も早くウィルソン米大統領の提唱する「十四か条の平和原則」*を受け入れて、休戦協定を結ばなければならないと、突然政府に連合国との早期講和を求めるよう要請した。突然それを聞かされたヒンデンブルクは怒り、政府は慌てた。しかし、聞かせられるとそれがベストと思うしかなかった。

ルーデンドルフが考えたのは、敗戦の責任を政府に取らせ、軍の名誉を守り、無傷で残すということであった。議会主義に反対していた宰相ゲオルク・ヘルトリングを辞職させ、代わりの宰相に自由主義者と言われていたバーデン大公マクシミリアンを任じ、彼にアメリカとの交渉を行わせた。数次の会談で、アメリカの要求はだんだん厳しくなり、ドイツ軍の交戦能力の徹底的剥奪や、戦争責任にも言及した。これは到底ルーデンドルフの容認する範囲ではなかった。これに抗してルーデンドルフは一転して徹底抗戦を唱える。「何のための交渉だったのか」宰相マクシミリアンはルーデンドルフに不信を感じる。辞職をちらつかせながら、皇帝ヴィルヘルム2世にルーデンドルフ解任を求め、ついにルーデンドルフは戦争責任を取るかたちで、参謀次長を辞することとなった。なおヒンデンブルクは留任し、ルーデンドルフはこれに不満があったらしく、ヒンデンブルクと別れる時に「貴方も辞職されるべきだった」と述べたと言う。

同年10月ルーデンドルフはスウェーデンに亡命し、そこで書いたのが『総力戦』である。


*1918年1月8日、アメリカ連邦議会における演説。この演説によって第一次世界大戦の講和原則、ひいては大戦後に実現されるべき国際秩序の構想を全世界に提唱した。「無賠償」・「無併合」・「民族自決」に基づく即時講和を大戦の全交戦国に提案したレーニンの「平和に関する布告」に準じたものであった。


ルーデンドルフの後を継ぐ形になったのが、グレーナーである。

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