第10話 名家の嫁(前編)
「春香さん、ちょっといらしてくださらない?」
姑の加代子が、台所にいた山科春香に声をかける。
「はい、お義母様。お茶でしょうか?」
さっき玄関のチャイムが鳴って、加代子が誰かを招き入れたのは知っている。
「お茶なんていいから。ほらほら、エプロンも脱いで。ちょっと、髪も乱れているわよ。ちゃんと整えなさい」
そう言う加代子は淡い色調の着物姿。グレイヘアの髪はきちんと結い上げられ、化粧もしっかり施している。いささか痩せぎすではあるが、スキのない出で立ちだ。
春香の方は、家事がしやすいように洋服、それも白いシャツと濃紺のスカート、その上に花柄のエプロンをして、セミロングの髪の毛は後ろで一つに束ねている。本当はショートカットが好きだし、服装も動きやすいジーンズとTシャツにしたいのだが、加代子がそれを許してくれないのだ。
客間には、一人の女性がきちんと正座で待っていた。年齢は加代子より少し若いくらいか。加代子と違い、化粧っ気のない地味な顔立ちだ。白髪交じりの髪は後ろで一つに束ね、白いシャツに濃いグレーのスカートと、同系色の薄手のカーディガンを羽織っている。これといった特徴のない、どこにでもいる「普通のおばさん」だ。
そういえば…と春香は彼女と自分の服装と見比べた。何となく今の自分と雰囲気が似ている。だとすると、あと三十年も経てば自分もこんな「普通のおばさん」になるのか。
「紹介するわね、こちらウチの嫁の春香。春香さん、こちらの方、今日からウチに来ていただくことになりました、家政婦さんよ」
その女性は、座布団から降りるときちんと三つ指をついて頭を下げた。
「KKファミリーサービスより参りました、佐々木淑子と申します。若奥様、どうぞよろしくお願い申し上げます」
ああ、こりゃ口やかましい姑が気に入ったに違いない。春香は納得した。
初日の淑子の仕事は、姑の話し相手だ。
「……そもそもわが山科家は、堂上家の出でしてね。あなた、堂上家って分かるかしら?」
「はい、お公家さんの中でも特に格の高いお家柄……ということくらいしか存じませんが。申し訳ございません。いささか不勉強でございまして」
「あらあらあら、そんなに恐縮なさらなくても。この令和の時代でお公家さんなんて死語ですし。堂上家をご存知なだけでも大したものですわ」
お茶のお代わりを用意していた春香は少しばかり感嘆した。たいていの客人は堂上家と言われても苗字の一種かと勘違いする。すると加代子は待っていましたとばかりに「あらあら、今どきのお方は……まぁ、ご存知ないのも仕方がありませんわねぇ。そういう世界にはご縁もないことでしょうし」などと嫌味を交えながらお家自慢が始まるのだ。
堂上家というのは、公家の中でも格が高く、公卿になれる家柄のことを指す。いわゆる上級貴族だ。とはいっても、それは京都に御所があり、公家が存在していた大昔の話だが。
「――御所の清涼殿南廂に、
「まぁまぁ、恐れ多い。世が世なら、あたくしのような者など大奥様と気安くお話しできないじゃございませんか。ああ、現代でようございましたわ」
「あらまぁ、淑子さんったらおもしろいことを……」
ころころと笑い声をあげる姑は上機嫌だ。彼女にしてみれば、こうやって持ち上げてヨイショしてくれる話し相手ほど嬉しいものはないのだろう。春香は黙って三杯目のお茶の用意を始めた。
一緒に家事をするようになった春香は、これまた驚いた。淑子の働きぶりは実に見事だ。年の割に……というと失礼かもしれないが、フットワークが良く、てきぱきと手際よく家事をこなしていく。しかも、その中に何となく品の良さみたいなものが感じられるのだ。
床の間をきれいに磨き上げると、ふと庭に出て、その辺の草花を摘む。それを、小さな一輪挿しなどにさりげなく活けて飾る。ただそれだけなのに、ものすごくサマになっている。加代子に出すお茶や茶菓子もそうだ。その辺のスーパーで買ったような羊羹ですら、ちょっと斜めにカットして渋い色合いの小皿にのせると、老舗の高級和菓子に見えるから不思議なものだ。
「付け焼刃でございますよ」と淑子は笑うが、一朝一夕ではこういうセンスは磨けないだろう。亀の甲より年の劫というところだろうか。
おかげで加代子も終始機嫌がいい。もっとも、淑子が帰った後に「あなたも淑子さんを見習いなさい」といつも以上に嫌味を言われるようになったが。とは言え、気位の高いこの姑をここまで手なずけられる淑子を、春香は尊敬に値すると思っている。
春香がこの家に嫁いで、気が付けばもう二年。築五十年ほどの家は何度かリフォームもしてはいるが、そろそろ限界だろう。その昔、何かの本で著名な建築家が「木造の家でも、造りがしっかりしていて手入れをきちんと行えば五十年は余裕だ」と書いていたが、元の造りも粗雑なのだろう。むしろよく五十年も持ちこたえたものだと感心する。
夫の修は温厚で人当たりこそ良いが、嫁姑の関係には我関せずを貫き通している。それに仕事で家を空けることが多く、家庭内にも無関心だ。
そもそも修が結婚できたのは四十路になろうかという時だった。それまで結婚話がないわけでもなかったが、加代子がことごとく潰していたという。
「あたくしは別によろしいんですよ。でもねぇ、そんなお育ちのお方ですとねぇ……」
決め台詞はそれだ。どんなに美人でも、才女でも、お金持ちでも「お育ち」の一言で片づけてしまう。当然だがそんな邪魔者がいると分かると、敏い女たちは修から逃げ出した。加代子のお眼鏡に叶う女性は「皇族でもない限り無理だ」と捨て台詞を吐いて。
春香が結婚できたのは、修が強引に押し切ったせいだ。「このままでは一生結婚できない」と加代子に迫る修の迫力と、修に後がないことを自覚させられた加代子の妥協のたまものでしかない。
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