第11話 名家の嫁(中編)
「まぁまぁ、若奥様。そちらをお掃除していただけるのですか、ありがとうございます」
浴室の床を磨いている春香を見て、淑子が恐縮する。
「それにしても、おきれいですわねぇ。ここだけ新しくなすったのですか?」
「ええ、半年前にリフォームしたんですよ。義母の好みをできるだけ反映させて」
「ああ、さようでございましたか。どうりでここだけハイカラな感じですわねぇ」
「ハイカラ……ねぇ」
淑子の言い方に内心複雑なものを感じる。ハイカラというよりは、少女趣味、あるいは成金丸出しと言う方が向いているのではないだろうか。築五十年の和風の家の中、そこだけは異彩を放っている。白いタイルに、金色に輝く猫脚が付いた、白いホウロウ製の洋風バスタブ。シャワーの水栓部分も金色で統一している。
暗くてカビ臭い風呂場をリフォームしたいと言ったのは春香だった。冬などは寒くて入っていてもすぐ湯冷めしかねなかったから。春香の予想に反して加代子はいともあっさりと快諾したが、リフォームのデザインは自分が決めると言い張った。
その結果が、これだ。淑子などは「フランスのホテルみたいですねぇ」と目を細めるが、春香から見ればラブホテルのバスルームにしか見えない。
「ではここは、若奥様にお任せしてもよろしゅうございますか? あたくしは洗面所の方をいたしますね」
「ええ、お願いします」
白地に濃紺で描かれた西洋風の唐草文様のタイルを磨きながら、春香はあれこれ考える。
「……おフランスねぇ」
かのマリー・アントワネットはお風呂好きで、当時フランスにはなかった入浴の習慣を生まれ故郷のオーストリアから持ち込み、ヴェルサイユ宮殿にバスタブを用意させたとか。確か、ソフィア・コッポラが監督した映画でも入浴着を着てバスタブに浸かっているシーンがあったっけ……。
ふと、変なことを想像してしまった。もし、マリー・アントワネットが死刑にならなかったら、うちの姑みたいな婆さんになったんじゃないだろうか。気位が高く、上流階級であることを誇りにして、そして時々やたらに少女趣味。
「まぁ、世が世ならあの人もギロチンで首をはねられるわな」
周囲に誰もいないのを確かめて、そうボソッとつぶやくと、春香は再び床を磨き始めた。名家の若奥様が聞いてあきれる。家事に追われ、姑の世話に苦労する、どこにでもいる普通の主婦じゃないか。
「――そう、分かったわ。ええ、こっちは台風が来ているようだけど……。いいえ、大丈夫よ。春香さんと有能なお手伝いさんがいるから。じゃ、気を付けてね。おやすみなさい」
時計の針は既に九時近く。春香が淑子と共にずぶ濡れで家の中に入ってみれば、加代子はのんびりと電話で話していた。電話の相手はおそらく修だろう。一昨日から地方に出張しているのだ。
もっとも、本当に出張なものかははなはだ怪しい。修に別の女性がいるのは百も承知だ。何しろ修は、とある事情から一度たりとも春香に触れていないのだから。
「あらあらあら、二人とも濡れ鼠ねぇ。あ、いいえ、こっちの話。じゃあ修さん、またね」
加代子はのんきに電話を切ると、そばに置いてあったタオルを二人に目がけてぞんざいに放り投げた。
「で、植木鉢とかは大丈夫なんでしょうね?」
「はい、大奥様。飛ばされそうなものは全て物置小屋にしまい込みました。若奥様も雨戸の補強をしてくださいましたので、大丈夫ですよ」
既に外はかなりの暴風雨だ。二人はこんな時間まで雨風に打たれながら台風対策を施していたのだ。本来なら淑子はとっくに仕事を切り上げて帰宅している時間帯なのに「非常事態ですから」と自ら居残っての手伝いだった。今夜はこのまま泊まってくれるという。
「淑子さんもお疲れ様でした。体も冷えたでしょう?」
そう言ってねぎらう春香の方が、小さくくしゃみをする始末。
「あらあら若奥様こそ。お風邪を召しますよ。ではお風呂を沸かしましょう」
「あらぁ、お風呂! いいわねぇ。停電にならないうちに入ってしまいたいわ。春香さん、淑子さん、用意してちょうだいな」
加代子の無神経さにはもう慣れた。ずぶ濡れになって家を守ろうとしている二人に対して、風呂を沸かしてねぎらうという発想などみじんもない。それどころか、自分が一番風呂を使う気まんまんなのだ。
「かしこまりました大奥様。ではちょっとお待ちくださいませ」
内心呆れかえっているだろうに、にこやかに答えた淑子は濡れた髪を拭きながら浴室へと向かっていった。
雨足は一層強くなっているようだ。濡れた髪を拭き、服を着替えた春香と淑子は、ダイニングでほうじ茶を啜っている。
「ずいぶんと激しいですねぇ」
「万が一避難勧告が出たらどうしましょう」
「まぁ、そんなことはないと思いますけど。それに、義母が避難することもないと思いますし」
「そうですよねぇ」
あの世間知らずで気位の高い姑を避難場所に連れて行くようなことがあれば、春香一人では手に負えない。加代子のお気に入りである淑子なら、上手におだてて言うことを聞かせてくれるだろうが。まぁ、どちらにせよそんなことはあり得ないだろうが。
「では、今のうちにいろいろと準備しておいた方が……」
「そうですね。じゃ、私はこっちをやるので……」
「では、あたくしは電気系統を見て参りますね」
停電用の懐中電灯を用意して間もなくだった。室内の灯りがフッと消え、浴室からは加代子の悲鳴が聞こえてきた。
「ちょっとー、誰か来てちょうだい! 停電よ、停電!」
真っ暗な中で、慌てて喚きたてる加代子の声が響く。
「ほら、懐中電灯の出番ですよ」
「ありがとう、淑子さん。じゃあ、行きましょうか」
「はい」
二人は懐中電灯を手に、浴室に向かった。
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