こちらKKファミリーサービス

塚本ハリ

第1話 文豪の娘(前編)

 谷本千鶴子はちょっと戸惑っていた。目の前にいるのは、自分よりはまだ若いが初老の女性―おそらく還暦前後といったところだろうか。白いブラウスに濃紺のカーディガンとグレーのスラックスという、地味な装い。後ろで一つに束ねた髪は白髪混じり。化粧っ気もない素朴なおばちゃんという感じか。しかし、背筋をピンと伸ばして姿勢がいい。彼女はきちんと正座をして両手をつき、礼儀正しく頭を下げた。

 「KKファミリーサービスより参りました、佐々木淑子と申します。先生、どうぞよろしくお願いいたします」

 淑子は挨拶の後、少しはにかみながら、横に置いてあったバッグの中から一冊の本を取り出した。随分と古いその本には、見覚えがある。千鶴子の処女作「父の金平糖」の初版本だった。

 それを見た瞬間、千鶴子は彼女に好感を抱いた。彼女は千鶴子がれっきとした文学者であることを知っており、きちんと敬意を持って自分に接してくれているのだ。


 息子の純一から電話があったのは一週間前。「今度こそ、母さんが絶対に気に入る家政婦さんを見つけたから」とのことだった。

 純一は、高齢で一人暮らしの千鶴子を案じるがゆえに、これまでも何度か通いの家政婦をよこしてくれた。しかし、ありがた迷惑この上なかった。よこされた家政婦たちはどれも気に食わなかった。こちらのことをよく知りもせず、勝手に家の中を片付けようとしたり、自分のことを馴れ馴れしく「おばあさん」呼ばわりしたりと、礼儀も物もわきまえない連中ばかりだったのだ。

 淑子は実に良くできた女性だった。勝手に家の中をかき回すようなことはせず、初日は千鶴子に許しを得た上で茶を淹れ、じっくりと話を聞くだけに留めてくれた。しかも聞き上手で、千鶴子がついつい長話となったにも関わらず、いやな顔ひとつせず、むしろ「まぁ先生、それでどうなすったんでございますか?」とさらに話を盛り上げてくれた。

 千鶴子の父親は明治後期から戦前にかけて一世を風靡した文学者・谷本燕雀えんじゃく。今でも国語や歴史の教科書に名を残す文豪であり、千鶴子にとっては最愛の父親だった。

 一人娘だった千鶴子は、この文豪に溺愛された。父親は生涯ただの一度も千鶴子を叱ったことはなかった。そして、千鶴子が欲したものは何でも買い与えてくれた。

 父親の話をするとき、千鶴子は幼い娘に戻ってしまう。大好きな「パパさま」と、可愛い「おチィちゃん」だったあの時代が、まざまざとよみがえるのだ。

 唯一の心残りといえば、嫁いだ自分の姿を見せられなかったこと。終戦後ほどなくして、父はこの世を去ってしまったのだ。その後、千鶴子は結婚したものの、産んだばかりの長男を嫁ぎ先に残して、実家に返品されてしまう。何しろ人一倍甘やかされて育ったため、家のことは何一つできない役立たずだったのだ。結婚後も買い物や観劇、映画鑑賞などがやめられず、それは息子を産んでも変わらなかった。結果、呆れ果てた嫁ぎ先から追い出されたのである。

 とはいえ、出戻りになったことも、産んだ我が子と離れ離れになったことも、千鶴子にとってはどうでもよかった。父の遺産や印税収入は十二分にあったので、千鶴子と母親は暮らしに困ることはなかった。むしろ、父との思い出のある実家に戻れたことを、内心嬉しく思っていたくらいだ。

 千鶴子の暮らしは悠々自適だった。昼頃にのんびりと起き、母が作る食事を食べ、日がな一日父の書斎で彼の蔵書に囲まれて夜が更けるまで、のほほんと過ごす。時には映画や芝居を観に行ったり、百貨店を冷やかしたりして楽しんでいた。

 そんな千鶴子の暮らしが変わったのは、生前の父を知る編集者の一言だった。

「お父様の思い出話を書いてみませんか?」

 大好きな父のことを書く、なぜ今の今までそれを思いつかなかったのか。書けば書くほど父との思い出は鮮烈によみがえった。夢中で筆を走らせたそれは、やがて随筆集「父の金平糖」として世に出た。既に彼女は四十路。母親もとうにこの世を去っていた。

 文豪・谷本燕雀の娘が作家デビューしたとあって、処女作ながら売れ行きは上々だった。彼女はまたたく間に文壇の寵児としてもてはやされた。

 しかし、あれから四十年。もう長いこと、千鶴子は新刊を出していない。親身になってくれた編集者たちもとうに亡くなったり引退したりと縁遠くなってしまった。


「――バブル景気の頃だったかしら、実家の土地がものすごい値上がりしたもので、税金とかが支払えなくなってしまってね。でも、あたくしときたら全くの世間知らずでしたから、何をどうすればいいのかチンプンカンプンでしょ。そのとき、知り合いの編集者さんが、弁護士さんを探してくださったのよ。それで、本当に残念ではあったんですけど、実家の屋敷を売り払って今のこの家に住むことになったのよ」

 初めて出会った家政婦なのに、ついつい何でも話してしまう。幼い頃の思い出、父の話、失敗に終わった結婚の話や、作家になりたての頃の話、成人してから再会した息子の話など。それらを淑子は退屈がるどころか、身を乗り出して聞き入ってくれた。

 気が付けば、もう夕暮れ時だった。

「…ああ、こんなに楽しくおしゃべりしたのは久しぶりだわ。あなたみたいな方がもっと早く来てくだすったら、あたくしも助かったでしょうに。今回ばかりは息子に感謝したいわ。何しろこれまでのお手伝いさんときたら、常識も何もあったものじゃない人ばっかりで…。その点、あなたは教養もおありだし、礼儀もわきまえていらっしゃるし」

 淑子はくすぐったそうに身をすくめた。

「まぁ、先生にそんなことを言われるなんて、恐縮ですわ。では、明日もこちらに伺ってもよろしゅうございますか?」

「ええ、ぜひ。正直言うとね、家のことは何もしなくてよいのよ。ただ、あたくしの話し相手になってくださるだけで十分なの」

「先生、それはそれで逆にこちらが申し訳ございませんわ。ご子息からはそれなりの報酬を頂いておりますのに…」

「あらそうなの?」

「もちろん先生がお嫌なら、何もいたしませんわ。でも、ご用の際には何なりとお申し付けくださいましね」

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