第2話 文豪の娘(中編)
翌日、淑子は小さい菓子折りを手に再び千鶴子の家を訪れた。
「これ、
「まぁまぁ、風来堂の栗饅頭! 淑子さん、よくご存知で…」
「先生、随筆に書いていらしたでしょう? 実は会社の近くにお店がございましてね。確か明日が燕雀先生の月命日でございましたよね? 差し出がましいかとも思ったのですが…」
「ありがとう、父も喜ぶわ。ええと…」
千鶴子は部屋を見回した。家の中は、足の踏み場もない散らかりようとなっている。最愛の父の写真は、お気に入りの小さい額に入れて小机に飾っているが、その小机は何かの紙切れや小さい人形、ガラスの一輪挿し、とうに電球の切れた電気スタンドなどで埋め尽くされている上、埃をかぶっていた。
「あの、先生? よろしければ燕雀先生のお写真の周りだけでも少し整えましょうか?」
「そ、そうね…お願いしようかしら」
このときばかりは、淑子の申し出に素直に応じることにした。実は、これが今まで千鶴子が家政婦を嫌がってきた理由に他ならない。
「好きなものに囲まれて暮らしたい」
それこそが千鶴子の美学だった。他人が何と言おうと、自分にとって価値のあるものは手放したくなかった。父が描いたスケッチの切れ端、旅先から送ってくれた絵葉書。お気に入りの映画俳優のインタビュー記事の切り抜き、蚤の市で見つけた古い根付、縁が欠けているけど形が美しいベネチアングラス、もう動かない懐中時計、母が刺繍を施した着物の半襟。お気に入りのものばかりを集めていたら、いつの間にかこうなっていたのだ。それでも一つひとつに思い出があり、どれもこれも捨てがたい。
それなのに、ものの価値を知らぬ俗物連中ときたら、それを片っ端から捨てようとする。それが彼女には許せなかったのだ。
淑子は何一つ捨てようとは言わなかった。一つひとつ丁寧に取り扱い、そのたびに「先生、こちらはいかがなさいましょう?」と聞いてくる。そのやり取りを重ねるうちに、むしろ千鶴子が「ああもう、それは捨ててもよいわ」と応えるまでになっていた。
小一時間も過ぎた頃、小机はきれいさっぱりと整えられていた。マホガニー色の小机はきれいに磨き上げられ、埃を拭い取った写真立てからは父の朗らかな笑顔が見える。くすんでいたガラスの一輪挿しはクリスタルのように輝き、庭で摘んだ小菊が活けられている。写真立ての前には、九谷焼の小皿に載せた栗饅頭と、淹れたての緑茶が供された。電気スタンドもちゃんと点くようになり、温かな光で父の写真を照らしている。
「パパさま……」
千鶴子はそっと目じりを拭った。淑子の気遣いが、父との思い出を再び色鮮やかによみがえらせてくれたのだ。
「先生、お邪魔いたします。原稿の進み具合はいかがですか?」
「淑子さん、ちょうどよかったわ。お茶をお願いしたいの」
「かしこまりました。今日のお菓子は常盤屋のシュークリームですよ」
「まぁ、うれしいこと」
淑子が通うようになってひと月半、千鶴子の家は以前と比べてこざっぱりしてきた。面白いもので、家の中が整うと気持ちも前向きになる。千鶴子は久々に鉛筆を手にするようになっていた。特に出版する予定などもないのだが、とにかく何か書きたい気持ちが高まってきたのだ。
淑子の計らいで、窓際に文机を移動させた。ここなら日中は日の光が入るし、夜はお気に入りの電気スタンドが柔らかな光を放ってくれる。文机のすぐ脇にはベッドがあるので、疲れたらすぐ横になれるのもありがたい。夜は電気スタンドが常夜灯になる。この電気スタンドも相当年季の入った代物だ。どこで求めたか、記憶はもう定かではないが、これもまた千鶴子のお気に入りだ。シェードの部分にはステンドグラス風のデザインが施され、白熱灯の温かな光がより一層美しく映える。惜しむべくは、電気コードの部分がだいぶボロボロなこと。ここだけでも取り替えたいのだが、とりあえず今はまだ使えるのでそのままにしている。
淑子は毎日朝の九時半には家を訪れる。寝起きでぼうっとしている千鶴子は、淑子が毎朝買ってくるハセガワベーカリーのサンドイッチを食べ、熱々のミルクティーを飲む。それでようやく目が覚めるのだ。その後は身支度を整え、机に向かう。
千鶴子が執筆している間に淑子は食器を洗い、洗濯を済ませる。そして頃合を見ては昼食を用意したり、三時のおやつを用意してくれ、千鶴子に声をかける。執筆に疲れた千鶴子はそこでひと休みし、淑子とたわいないおしゃべりを楽しむ。その間も淑子の手は休むことなく、千鶴子が使った鉛筆をきれいに削ったり、原稿用紙をまとめたりしてくれる。
「先生、この原稿はどこの出版社にお出しするのですか?」
「そうねぇ、正直言うとアテはないのよ。昔お世話になったところにちょっと声をかけてもいいんでしょうけど、もうなじみの編集者さんもいないしねぇ。まぁ、書き上げてからでも考えましょうか」
「そうでございますか。ところで、今書いていらっしゃるのは、どのようなお話ですの?」
「随筆よ。まだ小説はかけないけど、あなたがいらしてくれたおかげで、忘れかけていた父の思い出話がポツポツ出てきたの」
そういえば、最初の随筆も父の思い出話だった。いつも険しい顔をして書斎にこもって執筆をしていた父。でも、千鶴子が書斎に入ると、たちまち相好を崩して膝の上に抱き上げてくれた。父の文机の上には書きかけの原稿用紙、舶来物の万年筆、タバコと灰皿。そして小さな銀色のボンボン入れ。旧宮家の方から頂いたというそのボンボン入れの中にはいつも金平糖が入っていて、それを千鶴子の口に入れてくれたものだ。口の中でころころ転がる、甘い金平糖。世の中に、あんな美味しいものがあるとは思わなかった。年老いた今でも、千鶴子は、あれがこの世で一番美味しいものだと思っている。そういえばあのボンボン入れは、戦時中の空襲で燃えてなくなったはずだ。父の思い出の品々はできる限り残してはいるが、戦火で灰燼に帰したものも少なくない。幼い頃の記憶なのに、いまだにあの日のきな臭い匂いまでも覚えている……。
「……さぁ、休憩はおしまい。もう少し書くわね」
「はい、かしこまりました」
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